「知識人」の世界は、成りたくてなるものではない。自動的になる。これは商人とか政治家も、あるレベル以上で同じと思う。
自分の脳がある種類にできていると、勝手に知性的なことを修めていってしまう。というか空気を吸う様により知的なものを求める。
本当は大学入試で頑張るとか全く無意味だ。
逆に、脳がある種類のひとは、性能をフルで使えないので、学術がなければつねに退屈している。例えば400キロ出るスポーツカーなのに公道で80キロ制限かかってるみたいなもので、学校レベルで満足できてるひとはある意味幸福なのである。
ユタボンが学校いきたくない。それは平均にあわせてる学校より知能が高すぎるか低すぎるか別の種類か、どれかだ。
自分が衝撃だったのは、小中学が面白かったといっていた或る幼馴染の発言を見たときで、僕には地獄そのものだった。塾は比較的面白かった。それは学校で学業の進度が遅すぎたからだ。
単に学業の進度が遅すぎて授業が退屈でしょうがないだけではなく(まるで拷問だがひたすら我慢し大人しく遅い授業を聴いてないといけないから極めて苦痛)、同級生もさるにしか見えなかった。冗談抜きでサルにみえていたのである。今も人類の殆どは僕にはサルにしかみえない。学校もまさにそれだった。
高校は、もう義務教育おわったから俺の自由だろうと自己判断して授業は無視した。それで手元で自分の勉強をずっとやっていた。制度は制度だからしょうがなく出席していたが、進学校とか生徒は信頼されてて自由放任度が高く、その点で苦痛といっても高が知れており、授業を基本無視できたからが大きい。
「知識人」になる人達は、勝手に自分で好きな勉強をやりまくる。僕は完全にそれで好き好んで、誰に頼まれるでもなく福沢全集を買い込んで10代半ばから今まで猛勉強しかしていなかった。
しかし、これは世間の自称普通人は全く理解できないはずだ。だって彼らは大学入試とか仕方なく勉強してるので。
学問の最高度以上のレベルに進むには、単に勉強すればいいだけで、そしてそれは「好きこそ物の上手なれ」の上で「楽しむものにしかず」であり、勉強が楽しくてしょうがない人達というのが確かにいる。試験点取りゲー大好きな東大生も大勢いる。
学問オタクがいるのに、勉強させようとか意味がない。
ユタボンが学校の勉強、つまりは科学が嫌いだとしたら、それを無理やりさせようとする人達はなにを考えているのだろう? 自分には正確には理解できないが、推測するに、同調圧力では? なぜ学校が楽しい人達と同じにしたいのか。学校合わない人もいるのだ、僕みたいに。因みに僕は全部卒業したけど。
苦痛でしょうがないのに10何年も無駄にした。その間はもう二度とくり返したくないと思っている。今から子供にもどれといわれ小中学行けといわれたら、それは拒否する。僕が自分の能力をある程度十分に使えたと思えたのは、独学にきりかえてからである。教師みたいなアホにあわせなくていいんだから。
ウォーレン・バフェットが「尊敬する人の下で働きなさい」と言っていた。これは真理である。もし誰かがなにかをぜひ勉強したいと考え、その分野で明らかに自分より優れた知識に到達してる人がいたら、その人に必死になって就いて学ぼうとするはずだ。だから学業も、本来そうあるべきなのである。
もしこの世に、尊敬できる人が現役でみつからなかったとする。その場合、誰に就く必要もない。
しかし過去および現代の全人類に誰も学ぶ必要がない、という状態はおそらくありえないだろう。もしそうするなら、人は類人猿ほどの未開状態に置かれる。誰かに学ばないと人は火すらまともに起こせない。
ユタボンは学校行けとかいってる連中。君らはユタボンの心配なんてしてる場合ではない。自分が学ぶのだ、尊敬できる人から。自分より優れた英知の持ち主から。それが学業なのだ。
君が全人類の模範か? 人類史に必出の偉人か? そうでなければ君は学問が足りない。まず自分の学業を完成させろ。
学校という明治時代に作られた、表面だけ欧米からまねた制度。これは実にできが悪い。近い将来つぶれるだろう。飽くまで薩長藩閥とか鹿児島と山口の一部の芋侍が、無理やり全国民を天皇政府の奴隷にしたてあげようとしたものだ。それで社畜量産機になっている。こんなの本来の学業と何の関係もない。
本当の学問は、根本的に、一体君がなんで生きているか、人とは何かを問う。それは古代ギリシアから始まり、東洋なら孔子以前から釈迦らがやっていた話である。もっと昔から拝火教徒とかユダヤの賢者とかいた。要するに生きる目的をみいだす活動である。それが哲学であり、科学はその部分でしかない。
自分がなぜ生きているか? 自分は3歳の頃、母親の隣で寝かされていながら考えていた。ほんとに。
僕は暑苦しくて寝たくなかったのに母が僕の世話に疲れて昼寝したいから隣で寝ろという。それで一人で考えていた、なぜ苦痛なのに生きるのかと。
哲学は言葉を使って生きる意味をみいだそうとする。
最終結論をより正しく導くには、少なくとも、全宇宙でありうるあらゆる現象について十分な認識をもつ必要がある。だから科学はすべて必要だ。なぜなら一部の認識を間違ってたら全体の結論のどこかに歪みがでるかもしれない。パーフェクトに森羅万象を捉えた上で、自分の置かれた状況を知る必要がある。
この意味で、学校で教えている程度の基礎知識のすべては、いずれ必要になる。自分で考えていたらいずれこのことには気づくだろう。
だが実際には、大学院まで含めて、学校制度の中では科学の十分な次元に到達できない。だってそれはまだ初歩段階なのだ。少なくともうまくやって全科学を習得せよ。
いわゆる科学者と呼ばれる博士とかの人達。この人達はビギナーと知るべきだ。先は無限にある。しかもわざわざ肩書き補助輪もらってるくらいなんだから自分の羽で飛んだことがないみたいなもんだ。
免許皆伝は実戦の証拠でない。
結局は、学業は無限に学び続けるしかなく、自力でやる必要がある。
「知識人」になる人達は、或る意味では選ばれた人達だ。うまれにせよ環境にせよ平等な条件ではない。その上位者として本来の意味での哲学を修める人達がいる。より道徳的な事を語っている人がそれにあたるわけだが、これもより選ばれた人達である。だって道徳なんて殆どの人は興味もってないのだから。
道徳について語るのは、恐ろしく難しい。なぜならこれはその人の自分ルールであって、もともとこの世にない。だから周りの人がその人の説を信じてくれるかにしか最終効果がない。マルクスをみるがいい。アダムスミスを信じた米国に比べ、共産主義を信じた中国は相当違う国になった。結果が180度違う。
マルクスは必死に勉学していた。彼の良心がゆるすかぎりの最善さを語り、死んだ。彼の考えを多少あれ正しいと信じた人達が、ソ連や中国や北欧をうみだした。
道徳が正しいかどうかはそのひとの判断だ。もともと不可能なことをしている。英知のかぎりを尽くしても最善の社会はただの空想なのだ。
知識人の王が哲学者であり、その中で最高の英知が必要なのが道徳の哲学者だろう。過去の人類でいえば聖人扱いされている人達、例えばイエスや釈迦や孔子やムハンムドらがそれにあたる。彼らは理想の社会を説いた。多くの人達がその空想に共感し彼らに従った。
人は社会で生きる。故に道徳が必要だ。
ユタボンに学校いけという。そんなのなんの意味もない。だって学校レベルなんて並の学者のレベルなんだから。そんなの一瞬でのりこえる必要がある。猛勉強してれば教授レベルなんて早晩超えられる。教授になる人達の何十倍も勉強すればいいだけだ。本気でやったら当然そのくらい行く。もっと上に行け。
われわれの社会がどんな感じか決めているのは、メンバーで最高レベルの道徳の持ち主がどんな理想をもっており、世の中こうなったらいい、こうなるべきという考えを実際に法律とか技術とか知識で広めてるかによる。
知識人のマックスがその社会の上限のノリである。しかしほぼ自動的にそれは決まる。
ここでいいたいのは、最初から聖人級になる人なんて決まってるのである。生まれつき背の高い遺伝子があるみたいなもんで、学習能力だって最初から大分違っている。それなのに人に向いてない作業をやらせるのは、個性を殺しているに等しい。
聖人は勝手に聖人になる。聖人になる人を普通教育するな。