文というメディアは、今、凄く軽侮されてるけど、僕的には絵の次に気に入っている。絵のほうが一瞬でわかるから好きなんだが文も好きだ。
絵の様にパッパとみれるのもあるが、動画とか音声はダラダラ時間かかるので好きではないのだが、文がいいのは異なる思想や人生経験が短時間に学べること。
できるだけ多くのひとが自分の考えとか思いとかなんでも経験を文にしたためる社会があれば、それは極めてひとのためになる文化をもっているといえるだろう。文は保存性も高く、翻訳も比較的容易なので別の時代・国々の人にも、今のある人の状況を伝えられる。よみあげで盲人にも伝わる点も優れている。
ではなぜ、多くの人々が動画や漫画・アニメに流れてるか? 自分には、特に漫画アニメのほうはよくわからない。
子供は絵本が好きだ。それは語彙が少ないから、文だとよくわからないので絵解きされれば楽だからである。漫画アニメもこの点が相似である。視覚表現のほうが伝わる内容もあるが。
動画が情報量が多いのではやると言っている人達は、それを感覚情報、感覚値か何かと勘違いして捉えている。情報理論上の情報量はエントロピー逆数で出現率の低さといいかえてもいい。文と動画で違う概念ではない。
動画でしか表現できない技はあるが、必ずしも文の利便性を超えるものではない。
つまり文は文として優れた特徴があって、その中で進化してきたし今後もしていくのである。
下らない文も無数にあるが、すばらしい文もある。
なぜ文を軽視する傾向が出てきたか、読解力が低下しているかなら、動画や漫画アニメが媒体として優れているからではなく、情報量の高い文が減ったからだ。
ここでいう情報量は、川上のぶお氏の『コンテンツの秘密』での概念を借りて主観的情報量と考えると、あるひとがこれまで得てきた長期記憶にとっての低出現頻度といいかえてもいい。日常語でいう「珍しさ」は、その人の認知可能性によっているので、低認知力ならどれだけ貴重な内容も豚に真珠となる。
また自分の長期記憶の中に、出現頻度の高い平凡パターンについての一定量の束ができていないと、たとえどれだけ天才的な珍奇さをみても、ありふれた凡愚と見分けられない。
こうして、文についてに限らず、あらゆる情報量をつめこんである教養体系が貧弱だと、物事の真価を正しく判定できなくなる。
極めて優れた文と、そうでない文がみわけられれば、動画漫画アニメゲームと、文の読み書きの本質的な作業は変わらないのである。それは情報量の操作であり、出現頻度の低いくみあわせを集散させ、より高い価値づけをくり返す作業だ。
サブカルとハイアートの根底差は、潜在情報量の差でしかない。
サブカルは「低文脈 Low context」であり、どんな教養のない異文化の子供でもすぐ伝わるほど前提となる知識量や、情報の束が少なくて済む様に作られる傾向にある。それは大衆商業作品だからで、できるだけ多く売れると金が儲かって成功と判定される代物だからである。
ハイアートは逆に「高文脈 high context」で、前提知識も大量かつ深く必要だったり、珍しさをみてとるにはうまれもった感覚や感受性のほうも鋭く繊細でなければならなかったりする。しかしハイアート側も教養が一定よりあるひとびとの間では国や時代にかかわらずあまねく理解できる様式の土台がある。
潜在情報量とは、この高・低の文脈落差にとって、前提となる情報の束のことだ。アヒルが最初にみたものを親と考えるよう、幼児は後天的知識たる幅広い道徳体系をもたないので、どんな内容の物語でもうのみにしてしまう。それでプラトンは『国家』の中で、若者には最善の物語だけ説き聞かせろといった。
サブカルの中には、訓話としての道徳教義の点で、比較的ましなものもどうしようもないのもある。しかしハイアートでもこの点は多かれ少なかれ似通っている。例えば大長編ドラえもんシリーズは友情の尊さを教えるかもしれないが、『源氏物語』はもののあわれと呼ばれる姦淫の正当化である。
勿論、これは姦淫は悪なりというのが一つの立場にすぎないのを前提にした例示だが、ハイアートと考えられている文芸・文学にも、必ずしも立派ならぬものもあれば、サブカルでも古典より優れた内容が含まれるものも中にはあるわけだ。
しかし必要な前提知識、潜在情報量には高低文脈の落差がある。
結局、ゲーム禁止令とか、漫画アニメは下らないとかは、基本的には、低文脈な物は頭が悪くなるだけだからやめなさい、という高教養教育観によっているということだ。そしてこの観点からみると、低文脈な物が忌避されるべきであって、高文脈ながら不埒な物は除外される。退廃的小説など無数にあるのに。
ニーチェなんて伝統的キリスト教道徳をまず全否定させるし、ドーキンスならそれだけでなく全宗教を罵っているみたいなものだ。大体、小説はハイカルぶってるが元来が、中国だろうと西洋だろうと漫画レベルのサブカル奇書扱いだったのである。今でいうラノベとかインフルエンサーのマーケティング雑記。
「じゃあなんで、頭の固い大人はどうしようもない本よんでたら偉いと思うの? スマホで荒野やってたらぶちぎれてくるの? ユーチューブでぐでたまみてたらもうみるのやめなよとか制限されるの?」
それは上述で説明される。高文脈なら知識必要だから一見賢くみえる。アホっぽけりゃ馬鹿にされる。
現実にサブカルの中身なんて一々みてない。質がどれほど高かろうとそんなの大人は仕事の最中に確認してられないのである。サブカルっぽければダメ。どんな子供でも分かるならダメ。なぜならアホでも分かるから。これが答え。
裏を返すと、文ならどんだけ最悪な中身でも普通に大人はだまされている。
例えば綿矢りさの小説とか。『蹴りたい背中』だけ読んで分かった気になってる大人なんて普通にあいつにだまされている。『インストール』は高校生だかの風俗援交チャットだわ、『夢を与える』はアイドルがアダルトビデオ撮影で淫行オチである。そんなのを芥川賞と褒めちぎってるのが下衆な大人である。
おわかりでしょうか。
文は確かにすばらしいメディア。しかしそれは下衆は下衆として分かるからなのであって、下衆が文のよみかきできたら急に偉くなるからではない。だが、アホな大人は本なんて読めませんので、文がよみかきできるだけで頭がいいと勘違いしている。がアホな大人もゲームはできる。
今日の国内文化にある混乱を整理しよう。私が。
サブカルは低文脈で幼稚。それは確かだ。だがカネ儲けしたさに下衆な商人根性の連中がやってるのでこれはもう変わり様がない。子供騙しで花札メーカーがガッポリ。世界的にそうだから。
ハイアートも今は米英人のせいで商業化しちゃってるが、本当はかねもちの浄財だった。絵解きで聖書を文字よめない庶民に伝える。仏画も。小説は元が史書もじったおふざけだけども、詩なら恋愛感情だの自然美の感動表現である。物語も竹取翁とか千夜一夜のおとぎ話である。つまり昔はサブカルと似てた。
大乗仏教的な優しさというか、高度な哲学がはじめにあって、それを子供とか無学な庶民にも伝えてあげましょう。その為に工夫してね! というのがハイアートの基本。もっと昔は神像や土偶なんだけど、これだって信仰の象徴化である。
しかし中世頃からかねもちが箔づけに使いだし知性化がはじまる。
で、知性化が近代で極度になると、誰にも分からないことやるのが偉いんだよという前衛美術なるものがうまれてくる。一番典型なのがゴッホ。当時は厚塗りとか意味不明だったし古典の絵じゃない上に学歴もない、売れなくて自殺。時代がおいついて彼は偉かったと祭り上げて、前衛は知性化の象徴となった。
ピカソの同時代人モンドリアンあたりになるともはや一般人からすると意味不明な独自理論で極めてコンセプチュアルなこと(言語概念を解さないと理解が難しい事)ばかりするので、同時代の理解者なんて数えるくらいしかいなくなってきた流れで、現代アートは庶民にわからないものと相場が決まってきた。
すなわち、ハイアートは「庶民にわからないんでしょ?w だから偉いんだよね」という裏返った目的に進化した。これはスノビズム(俗物主義)といわれている。アートきどってるアホとかみたらわかるけどまさにこれで、自分は分かってるからえらいんだと謎の上から目線でろくにわかってないやつばかり。
実際にわかってるやつならまだいい。そういう人は教養がしっかりしていて、本当に分かっているのがわかるし、そもそもそうでないとグチャグチャ全方位から批判されまくる場で、うちがまとめとくわ~的にお節介な美術史なんて、香港人よりぼこぼこになるので、よほど傲慢アホでもなければ書けやしない。
したがってサブカルはオタ同士のはぶりがあるからどんどん下衆になっていく一方(例えば京アニ・けもフレ2炎上みたいなので、どんどん理解に必要な知性を下方修正していくと犯罪者予備軍は当然だきこむ)、ハイアートはどんどん理解者少なくなってマニアックな知識人の自己満になっていったのだ。
大抵のやつらは、この両者の中間で適当に文化をみている。ガチオタでもなければ前衛アート目利きでもないだろう。これが現代の状況。ぽっかりあいた中間地帯は、アイドルとかテレビとかユーチューバーが埋めている。
大人が子供のサブカル漬けを憂うのは低文脈だからで、教育的にはしょうがない。
しかし高文脈を先ず現生全人類を超えてほぼ修得してるこっちからみると、高文脈だから偉いとも思わないんですねこれが。問題は、理解に知識が必要なのにあるんじゃなくて、中身なんですから。
ハーストのちょうちょペタペタがなぜ高評価か、ミニマリズムやオプアートの理解あっても悪趣味だからね。
「ちょうちょさんが可哀想。生き物を殺すなんていけないんだ!」という批判が、ハースト作品には第一になげつけられるべきであって、動物虐待をメンヘラアートとして高文脈に提示してきても、エライエライとは本来ならない。しかし美術史ハックされてるともいえるのでエライことになっちゃっていると。
とっても頭を使うゲーム。これが全てなんですよ。
政治もだけど、商売もゲームだから。仕事はゲーム。しかし商売やってて怒られますか? 実際には商売なんていくらうまくなっても嫌われますからね。
政治だって首相までのぼりつめようが皇族で生まれようが罵詈雑言なげつけられる経験でしかない。
大人が、子供がゲームやるのを、怒る。理由は、それが子供レベルのゲームだからなんですよ。つまりそこで叱ってる大人はアホなのね。大人だって議員ゲーとか金儲け小売ゲーとかやってんじゃねえかという話。大抵の大人の脳からするとそっちのほうが難易度がちょうどいいからやってるだけ。それだけ。
あるいは科学ゲーとか哲学ゲーとか無限連鎖できりがない上にやればやるほど貧乏になるみたいな無間地獄じみた面あるからね。科研費だれかにもらえてりゃいいだろうけど。
こっちの学問ゲーがなんで子供の頃に奨励されてるか? これ勧めてる大人もアホですから。博士で生活困難だから日本ステージ。
つまりね、学部卒で一般企業に就職して労働者ゲーやれ! 公務員ゲーやれ! というのが、その自称教育的な香川の自民党議員なわけよ。その人の発想は、君が、雑魚プレイヤーだという前提に立っている。ある意味では親切だ。君が雑魚ならだが、非凡な人しかなれないプレイを敢えて排除してくれている。
確かにかれの考えも一理ある。雑魚なら雑魚にしかなれない。雑魚に一番向いてるプレイスタイルがある。それがTHEサラリーマンOLで9割の人達がそのプレイスタイルだからね。現実。社畜教義を教え込むのは雑魚相手なら割と失点せず済む人生プレイ流儀なのが基本攻略法なわけ。決して高得点でもないが。
僕は、偶然にも、雑魚ではなかった。先ず子供の頃から悟りとか軽くあだ名されたりしていた。中学で。そんなに頻繁にいわれてはなかったが悟った様なこといっちゃってとか。僕にはごく普通の発言だったのだが、他の人より言語知能が高かったんだろう。
人は自分にふさわしいゲームスタイルがある。
僕は文のマニアみたいになった。別に誰にいわれるでもなくしぬほど本読んできた。大体、高校の時くらいに自発的に本よみだしてから今に至るまで20年も毎日一度も文読まなかった日はない。完全に熱狂しているといっていい。しかしそれは、僕の脳が自然に求めて文のよみかきやりたくてやってるのである。
中学以前の時点では、僕は割とゲームもやっていた。RPGである、特に。それも、中に文がでてくる。特にマザー2のせりふがお気に入りでつくった糸井さんは神の一種と思っているが、ゲームが好きな子供が将来どうなるかなんてわかったもんではないのである。いつの間にか飽きて別のことやるかもしれん。
そして、僕はどういうわけか子供の時点から会社員にだけはなるまいと感じていた。親みたいな公務員にもなりたくねーと薄々思っていた。実際どっちにもならなかった。某一香川県議推奨の雑魚キャラではなかったのである。
大体、僕は朝型ではなく夜型だ。毎朝起きるとか拷問だった。夜に凄く元気だ。
朝型も夜型も体質でいて、遺伝子に原因があるとか最近科学でいわれている。なのに朝から学校会社やる。馬鹿なのか。
そんならゲーム好きになりやすいとかもあるはずだ。本なり文好きになりやすいとか。なのに、特定の個性を否定させるほうがおかしい。この文全体でいいたいのは、自由を尊重しろだ。
ちなみにね、僕は一応、大学に籍があるけど休学状態で講義ばっかり聴いている。なぜか? 僕は勉強が趣味なのだ。だからボクから勉強を奪うやつは、ボクからゲームを奪うのと同じなのだ? 勉強が趣味なやつもいるんですよ? 冗談抜きでこの20年くらい勉強しかしていない。でも好きでやってんのだ。
僕がなんで普通大学に直接いかなかったか。教えてあげましょう。勉強邪魔されたくなかったんだよね。というか高校の時点でそうだったから授業無視して一人で勉強してたんですよ、授業中に。信じられます? 勉強の邪魔なの、普通の学校って。先生と政府の興味を教えてくるんだもん。俺の興味じゃない。
あんたら政府は邪魔なんですよ。教育において。邪魔だけしなければいい。指定科目をつくるのはいいよ。目安として。でもそれをね、子供だの生徒におしつけるのはやめていただきたい。政府の趣味でしょう? なんで僕の興味がないのを教えるのか。僕に興味が湧いたら学びますから。実際今やってるし。
勉強が趣味のひとからみるとね、実にばかげた組織なの、学校って。大学も。なんでかというと興味ねー科目をとらせるからだよ。それはね、学びたい人が選べばいいの。そしたらみんな楽しく学べるから。
なんでも食べましょう。雑食の勧め。別にそりゃ勝手にやれと。菜食主義もビーガンもいるでしょ。
僕が高校のとき興味あったのはとにかく芸術なのね。今もあるけど。だからそれしかやりたくなかった。で芸大美大うけたけど、僕を落としました。一年調べてみて、どうも俺よりアホな教授だったのでもう自分でやろうと思って今までずーっと勉強してるの僕。
邪魔だけしないで欲しい。それでいいから。
ゲームやりたいですと。その子供がやりたいだけやらせりゃいいじゃん。なんで邪魔するのか。
お前が俺の代わりに生きてくれるのか? お前が俺の代わりにアートやってくれるんか? お前が俺の代わりに俺が描く筈だった絵を描いて世界史の教科書に載ってくれるんか? やれるならやってくれほんま。
実際にやってみてほしい。0から。僕は0からはじめたんだから。0からはじめて、キャンバスに白地になんか筆を置いて、色塗り始めてみて欲しい。そこからはじめて今まで僕は、絵とは何かを研究しないと立派な作品作れないと悟ってずーっと森羅万象をガチで学びまくってるのね。博物学者みたいにね。
それに比べて、あんさん。香川県議のあんさん。あんたさんはなんや。ゲーム規制か。議員ゲームで規制か。もうね、自民党ゲームとか下らなくて草はえるから。サバンナ以下。
荒野で行動してろよ。
俺はレコナーさんとかいう名前でいるから。スマホ版で。フレンド申請してきても承認しないから。
広く浅く学びましょうと、就職手形で。社畜量産機だから。適当でいいと。馬鹿か。
別にね、一般教養として広く学ぶのはいいよ。でもね、それって一般教養を学びたい人がやればいいのよ。ヒンズー教徒にいきなり牛くわせて、発狂させたいか?
僕はちなみに教養学部だからな。結局自分で学ぶんだ。
ヒンズー教徒は牛が食べられませんと。学生でいうとね、アインシュタインみたいなやつだ。物理以外赤点とかあったんだから。
俺だって芸術に猛烈な興味があったわけで、他の事はどうでもよかったのね。そういう人に猛勉強の場を与えるのが本当は、大学なの。学校なの。でも東京芸大は僕を落とした。
おわかりですか? 一生を賭して芸術家になる以外ないと。絵描きになれれば死んでもいいと。自殺か画家か2つに1つだと。そんなレベルに思いつめるくらい本気で絵をやってやるわ、と思っていた15歳がいました。それは私です。高校のあいだ毎日朝から晩まで夢中で絵を描いていたのね。で、落とす。
ウソ抜きで朝一で美術部に殴りこみ、クソ寒い中でかじかむ手で筆を握ってあの100号の絵に向かう。それしか記憶がないくらいである。なんと休日に学校に忍び込んでまで描いていたのである。それだけ描きたいのだから。後でばれて教頭に美術講師が怒られたぽかったが。要するにね、邪魔しないでくれ。
学問とかね、芸術とかそういうものなの。自分が本気でこの道いくしかねえわと思って最後までやってやる、と命を預けていくのね入り口で。そうでないとある地点以後まで進めないの。余りに困難だからね。
そういう道を見つけるまで子供が夢中になってるのを応援してりゃいいんだわ。それが教育なの。
たとえ千回挫折させられようが、問題はそこからなんですよ。最後まで辿り着けるか。それは覚悟決まってるかどうかなの。なんでかというと、学問とか芸術の道は、明らかに難易度がマックスなのね。あらゆるゲームでも。だから天才といわれる。でもそうじゃない。途中で諦めない覚悟が決まってるかなの。
実際やってみたらいいんだ。一香川県議君。大山君か? 名前忘れたが。君は何が専攻なんだ。その学業を最後までやりきれよ。
絶対に千回も億回も挫折するだろう。だって全人類は途中で挫折して諦めて帰った場所なんだから。そこまで辿り着いてみろ。そこからなんだから勝負決まってくるのは。
俺の実経験としても途中で、すさまじい困難があるどころじゃないからね。普通に殺されかけるレベルのことは無数に起きてくるんだから。順風満帆だった~とか、例えばボナールみたいな幸せ感の絵残してるやつだってそうかもしれんぞ。
少なくとも俺は世界史で永世トップとるつもりでやってるからな。
僕がね、一生の中で唯一、自分と似た部分があるなと思ったのはせじま和世氏なわけ。どうみても建築に覚悟決めてた人物だ。それをお前、大川君。評判がどうとかほざいてSANAAはダメとかいったらしい? 新香川県立体育館の設計で。君に建築の何がわかるの。是非教えて欲しい。
ゲームもダメときて、SANAAもダメときた。君は最大限大目にみて、サブカルは下品だからダメ、ならハイアートなら少しはわかってるんじゃないかと普通は、推測される。しかしそれもダメであると。何がしたい?
文化をダメにしたいのか。
なにをダメにしたいのか。なにを成就させたいの。教えてみ。
別に僕は怒っているわけではない。どちらかといえば君の意見を聴こうとしているのだ。そこから学べる事があるかもしれない。大川君よ。君なりの思想があるに違いない。
僕がここで書いたのは、教育だよ。ゲーム好きな子供を潰そうと、それは勝手に君がやればいいですよ。しかしそれは教育ではない。
教育とは何か、educationとはe(外へ)+duc(導く)+tion(事)で、英語だとひきだすことなんだよね。これに『孟子』の君子三楽から「英才を教育する」との言葉をあてている。
あるひとの英才をひきだすことを指すんだよね。原義は。
それがなんだ。大川君は子供のゲームの才能を潰すのか。
じゃあさ、好きに潰せばいいよ。大川君は、周囲のね、子供の才能をね、ばんばんゲームに関するかぎり全国に先駆けて潰していけばいい。それで立派なハイカルチャーたる前衛建築も潰していけばいいよ。どうぞどうぞ。芸術なんて全部つぶせばいいのでは? それで一切無装飾の洞窟に住めばいいよ。
ゲームなんて1時間も許可する意味ねえだろ。0でいいだろ。寧ろ任天堂なんてソニーなんて国策でつぶせばいいじゃねえか、自民党がよ。安倍幕府がよ。皇室政庁がよ。やってみたら? どうぞ。僕はむしろ待ち望むわ。それを。ゲーム世代として。そんな世代あるのかしらないが。遊戯なんて無用でしょう。
ゲームもねアートもね、いらないの。
必要なのはね、社畜なの。
公務員なのね。社畜の仕事はね、トヨタ車づくり。それ以外いらない。なんでかというとね、トヨタだから。外人がね、安くてね、壊れないね、ガソリンハイブリッド車。乗るの。だからね、改善したの。どうぞどうぞ。売ったら? 永遠。
未来永劫トヨタ車うるつもりだろ、大山県議は。香川の主要産業じゃん。なんでね、これを教えてるかというとね、悔しいの。だって香川ってね、もと徳川光圀のお子さんがね治めてたから。ハイカルチャーの世界のはずなの。その点。
なんでそれなのにね、SANAAもディスってるの。悲しいどころか義憤。
僕はね、いきなりね、せじま事務所の前までいってね、働かせてくださいっていったの。21歳くらいの時。なんでかというとね、建築家で食いつなごうとしてたのそのとき。あとねモンドリアンとデ・ステイルに影響うけてね、建築と絵と彫刻は一体だと思ってたの。だから行ったの、天王洲アイル。一人で。
せじまさんがたまたまでてきたから働かせてくださいていったら最初困ってたけど何とか君に聞いてといったから、ききにいったらいいっすよ、といわれてね、しばらく働いてたの。せじま事務所がよかったんだけどもなぜかSANAAに回されて。
だからね、恩義があるの。大山君にディスられたくないの。
大山君がいくらディスろうが、直島にもSANAAの平屋と、せじまさんのアクリルの建物とか和風の小屋あるじゃん。だからもう手遅れでしょ。県の体育館どうなったか知らんけど。
かつゲームディスってるんだから、僕もね、一人の初期ドラクエ・マザー2ファンとしてね、反撃するわけだ。そりゃそうだろ。
香川は車社会らしいな、しかも高級車が多いらしいな? 大山君はテスラ車のるのか? 車産業ならディスらないんか? まあどうでもいいがな、俺じゃねえし。
結局かねになるかどうかで判定してんじゃねえのか?
車作る仕事とゼルダ作る仕事でテスラのが偉い意味がわからんな。トヨタならもっと。
君のなめてる任天堂、まあなめていいのかもしれないが、君の嫌いな任天堂の自己資本比率でも見とけ、大山君。潰したければ。どうやって潰すのか戦略練ってろよ。市場で囲い込むしかねえんだからな? 自己資本でやってんだもん殆ど。ゲームリリースは連打してくるぞ、一切売れなくでもしないかぎり。
外人に任天堂ブランドがどれだけ強烈かボウセットネタで確認しとけ。大山君。
あれを囲い込んで潰すにしたってよほどの知恵がなかったらそう簡単な話ではない。そしてその困難な仕事を僕は一度はやろうとしたんだから。グリーどころじゃなくて。
任天堂は邪悪かもしれないよ、しかし強敵だ。
ポケモンは任天堂の子会社だからな? それも計算にいれて、しかも本社が多国籍だからね、いまや。ということは、たとえ京都版を潰せてもアメリカとかヨーロッパとかのは手が及ばないだろうに? どうやってゲーム業界潰すんだ? 是非とも考えて欲しい。大山君の知恵で。アップルとテンセントもいる。
香川県民て95万人らしいな? しかし任天堂ゲーの潜在人口なんざ、いやソニーのプレステいれたら10億人はいるんじゃねえかな。大体中国の全人口の8割くらいはいってるっしょ。それを全部つぶすんだからね、香川単独で。やれるもんなら是非ともお願いしたい。賭博業界より猛烈な成長力だからね。
僕的には、95万人の香川県議の実力に期待しておくよ。任天堂キラーの異名を与えよう。
まあ話が逸れた。
文はとてもいいメディアだよ。思想を伝えるのに向いている。ビデオゲームは色んな複合要素がありすぎるから言語だけに絞った文もいい。しかし言語知能高けりゃ自動で好きに学ぶだけだよ。
科学だって論文の形で発表されるし、哲学なんて長文が多いし、要するに学業だってほぼ文みたいなもんだ。
そしてそれがより偉いというなら、是非ともご自身の自由の範囲で立派な成果をあげてくれ。文芸でもいいけど。詩とか戯曲とか。どうぞ。他人の足引っ張るのは意味ないから。時間の無駄だから。