2020年1月7日

科学的に考えるだけでなくその上に立ってさらに哲学的に考えなければならない

科学から当為(何々すべき、といった義務の形をとる命題)は導き出せない。科学はこの意味でどこまでいっても道徳の道具でしかなく、幾らでも悪用されうる。
 環境運動家グレタ氏やダライラマ14世が「科学的」というとき、彼らはこの危険性を熟知していない様にみえる。人を不幸に陥れる科学もある。

 たとえば「武士道」と呼ばれる体系的道徳は、日本では唯一の国民的な道徳律といってもいいだろう。これは新渡戸稲造の英文著"Bushido -- The Soul of Japan"によっている。他に日本人一般の道徳書として歴史的に体系化されたものはなく、いいかえれば現時点では和製聖典の第一類といってもいい。
 ここで説明される国民道徳の数々、たとえば義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠、克己、貞、あるいは新渡戸自身は十分説明できなかったと語る孝などの徳目は、武士の間で多かれ少なかれ共有されていた面もあれば、違った面もあった。
 国内各々の地域でも、最高の忠の定義が大分違った。茨城では尊皇が忠義、福島では佐幕が忠義、鹿児島では藩主にあたる島津家へのものが忠義、山口では松陰思想(アジア侵略や倒幕)への忠義など。新渡戸はこれらの相違を無視して、最も概括的な理念をき出すので終えている。
 忠義は忠(忠誠)と義(一般的正義)が合体した言葉だが、これに類した考え方は、キリスト教でもゴッドやイエスへの忠義、イスラム教でもアッラーへの忠義、仏教でも法(ダルマ、つまり因果応報と呼ばれる業の法則)への忠義と、少なからず世界的に似た様なものがある。

 が科学はこれらを含意しない。
 科学は単に原発を作り、原爆を作る。その為に必要な化学式や材料を教える。自然の分析そのものには、互恵的利他行動といった忠義を正当化する為の要素はみつかっても、自然のほうは、なぜその種の規則を人間が履行すべきか、しなければならないか、説明できない。なぜなら人の思想が原因だからだ。
 人の思想は言葉やそれが導き出すなんらかの概念(具体的な形をとらない感じ)を連ね、自然や社会の要素をどう組み替えるべきか色々な意見を導き出す。この道路はこう作るべきだとか、人はこの様に生きるべきだとか。
 科学は今、あるいは過去、自然や社会がどうなってきているかまでは分析できるが、それらの思考の道具には、なになにすべきといった「道徳的」な判断は書き込まれていない。同じく、実は未来学と呼ばれる科学の分野でも、余りに世界のありさまは複雑すぎるので、未来がどうなるかも正確に予想できない。
 科学なる思考の道具を使い、道徳的に斯くあるべしと考える作業は、一般に今日、哲学と呼ばれている。昔は分類で、後自然学(コウシゼンガク、自然学のあとの学)といわれていた時期もあった。もともと人の一生と関係ない瑣末な知識より、どう生きるべきかが人にとって大事なので、第一哲学ともいった。
(後自然学 meta-physicsを漢語に意訳し形而上学ともいったり、今日では狭義で倫理学 ethicsともいったり、もっとシンプルに道徳哲学といってみたり、道徳の学の言葉上の定義は、色々な経路を辿っている)

 事態を整理するにはこの「科学」と「哲学」という言葉がどう違うかについて遡る必要がある。
 本来、「科学 science」はラテン語の「知識 scientia」からきている。さらに分解すれば「知る scire」である。
 他に古英語からきてやはり知識を意味するknowledgeなどと区別する為、英語にとって外来語のサイエンスはよりまとまった知識を意味する学問用語になった。それで和訳も科学が採用された。
 他方「哲学 philosophy」は「sophos 知恵」の「philos 友愛」を意味するギリシア語からラテン語経由で英語に入った語彙を、さらに和訳した和製漢語だ。哲は祝詞(のりと)の前で神に祈りさとるの意味ゆえ、哲学は総合的学問を意味する。
 つまり科学は個別の知識、哲学は学究全てを意味する。

 冒頭にもどると、ダライラマ14世が「科学的」に思考するのが最高の幸せだとか、グレタ氏が「科学的」事実として地球のCO2濃度があがっているとかいうのは、「個別の知識として」といいかえたほうが、本来の意味を正しく認識できる。
 が今日、一般人は科学信仰をもっていて科学を真理、真実と考える。
「個別の知識(つまり科学)」は、実際のところ、いかに実験で検証しようが永遠に真理や真実をいいあてることはできない。昔の人は太陽や天体が地球の周りを回る「科学」をもっていた。未来の人は現代人の「科学」の殆どを、迷信だと考えるだろう。科学とは結局、ときに信憑性が薄いものなのである。

 もし我々人類にとって多少なりとも信頼が置ける考えがあるなら、それは「哲学的」なことのほうである。この理由には2つの要素がある。
 1つは「個別の知識(科学)」が誤っていれば、哲学(総合的学究)はいつでも修正できることだ。
 もう1つは、哲学は信仰などの非科学的分野も扱えることだ。
 上述の各地で異なる武士道(水戸武士道、会津武士道、薩摩武士道、長州武士道は似て非なるもの)の例でみたよう、なにかを信じることは道徳の一種であり、自然や社会など物質性・現象性をもつ科学の分析対象にはならない。しいていえば宗教学・倫理学の対象で、人の行動動機になる思想分析が必要だ。
 なぜダライラマ14世やグレタ氏の「科学的」との言い方に、致命的問題があるからなら、宗教、倫理道徳、信仰の類などは、個別の知識として実証科学(実験で検証できる対象)では扱えず、飽くまでなんでもありな哲学の中でしか考察できないからだ。哲学の中で科学言語(数学)や科学の方法論も使えるが。

 もっというと、現代の科学者と名乗る人々は、主として物理学を規範にしている。なぜなら古代、物理学は自然学 physicsと呼ばれており、もっと広範に自然全体を学ぶことを意味していた。だから科学者といえば自然科学の考え方をもつ人というほど学界で物理学は権威だが、物理は道徳を研究対象にしない。
 つまり「科学的 scientific」との言葉を使うと、間接的に、自然科学的な考え方をとることが含意されてしまう。これは大きな間違いだ。既に古代ギリシアのアリストテレスが、厳密さが要求されない学問分野があるといっていた(『ニコマコス倫理学』による)。物理は数学的分析を行う緻密な分野だが、道徳にその方法はあてはまらない。
『武士道』で述べられた多くの徳目は、どれも、ユークリッド『原論』に於ける、あるいはニュートン『原理』ほどの公理系に基づく厳密な定義の形をとっていない。したがって科学的でないといわれうる。だがこれは、線や、物質の運動より抽象的な道徳の概念を扱う際、必ずしも問題にならないのである。