2020年1月23日

最も賢い集団に属すべきで、愚か者どもに期待をかけても無意味

僕は今日重要なことを悟った。
 きのうまで人間に期待をかけていたが、もうやめることにした。なぜなら、自分は親切さや善意の余り愚か者に期待をかけ啓蒙を何度もしたのだが、結局バカは治らないと実感する経験を重ね、人間性の限界に思い至った。
 愚か者に期待してはいけない。諦めるべきだった。

 この世で愚者はずっと愚者のままなのだ。一度でも愚かな言動がみられたらその人を見限ってよかったのだ。僕はこの逆の努力を重ねていたが、全てムダに終わった。
 逆とは、一度や二度の愚行がみられても、わずかでも美質があればその人に期待をかける親心の様なものだった。これは全く無益有害だ。
 現実がどうなっているかなら、程度として愚者の列が存在する。少なくとも自分は息をしている聖者に会ったことがない。全員がほどあれサルの様に愚かな人類しか、生きている存在としてはみかけたことがないが、愚行の質量が即ちそのまま、彼らの愚かさだったのである。期待とか全くいらず改善もしない。

 相当以前から自分は「啓蒙主義」を疑いだした。なぜなら多くの人々の中に入っていって説教したが、結局衆愚は発狂し続けるだけで何も理解していなそうだ、と感じることしかなかったから。どれほど工夫しても同じだった。
 衆愚に期待をかけるなど不可能ごとだと感じていても理論的裏づけがなかった。
 しかし今や理由がわかった。単に、愚者には程度があるだけだったのだ。より愚かな人達はより多くの愚行をし、より賢い人達はより少ない愚行をする。これが全てで、人間自体に期待をもてないのである。
 啓蒙主義は何かの幻想だったのだろう。ディドロ、ダランベール、福沢諭吉。彼らは無駄足踏んだ。
 仏陀は最初から、今の自分に近い見解を述べていた。いわく「愚者を見聞きするな」「人は行いによって尊くも卑しくもなる」
 これは賢愚は言動によって見分けられるといっているに等しい。確かにそうだ。愚行の質でしか愚かさは証明されない。しかし一旦証明されれば、それは確かな証である。
 自分が大きく勘違いしたのは、『新約聖書』ローマ人への手紙13:16でパウロが、「身分の低い者に順応せよ、自分こそ知者と思うなかれ」といったせいだ。私はこれを驕りへの戒めと読むべきで、啓蒙の勧めと受けとるべきではなかった。啓蒙は根本的に不可能だし、賢い人はより賢くなる一方だからだ。

 人間集団についてもほぼ同じことがあてはまる。たとえば東京都知事の質は、わが県に比べると大変低いが、それは都民全般の民度の反映にすぎない。いいかえれば、東京都には期待がもてないのである。彼らは下賎だから下衆な知事を選び、不正させ何度もひきずりおろしたり、公害や悪徳をまきちらすのだ。
 日本政府の首相がろくでなしなら、その国民に期待がもてない。安倍晋三氏が暗愚でサイコパスな権力亡者でなければ何者だろうか。だがその様な人を選び出す山口4区の人達や、日本国民全般に期待がもてない証拠だと捉えればすぐ合点がいく。彼らに啓蒙しても意味はない。もっと賢い集団は別にいるのだ。
 生後学習できる時間が有限なので、この世で完成された神性の持ち主は存在しえないが、かぎりなく全徳へ近づく向学度は確かにある。だから賢愚は相対値で、集団平均についても同じだ。この世で最良のくらしを達成するに、人間社会から得られる便益という意味では、最も賢い集団を選び属する必要がある。