2020年1月26日

学閥・学歴差別観は反社会的人格障害の一種

自分は学閥(学歴)差別主義者を全人生の中で3、4人みた。彼らの基本的特徴は、うまれながらサイコパス度が高いのと、中途半端な学歴をもっていた。そして学生としては総じて不良であってまじめに学問を究めるつもりがない。学外にでてから、その中途半端学歴で他人を差別するのが目的の俗物だった。
 脳とみて、18才までに一律の条件で一律の教育を受け一律の紙の試験で序列化させているわけでもないし、(できないが)仮に一般化してもその受験結果と知能全体の能力になんらかの比例や厳密な相関があるでもない。
 しいていえば学閥差別人事の旧大企業や官公庁で新卒就業に影響あるくらいだろう。

 しかし、かれらの目的は思考節約の為の差別そのものにあるので、より緻密に知能の特性をみるといったことはお呼びでない。寧ろかれらの思考水準に適度な差別観が、その種の偏差値序列であり、もし学閥・歴が科学的偽や人権侵害の旨から違法化されても、また別の差別観にすがる傾向は残っている筈だ。

 例えば芸術や運動競技といった例外の余地をかれらは考慮できない。なぜなら自然・社会科学のいずれかの分野に該当する学部に、全員一律の環境及び目的下で競争入試し序列化されているという擬似的前提が、かれらの差別の第一条件だからであり、その外にある全人類は評価関数の違いで知能をはかれない。
 だが、その種の多重知能ならびに知能多様性は、かれらの思考節約術を大いに混乱させるので、憎悪される。だから芸術なら類似の学歴を目安にし、運動競技の場合は筋肉バカとみなして無視するか、やはり科学的入試の序列にAOなどで入学したかどうかを無理やり、虚構的な差別指標にしているらしい。
 いいかえれば、かれらは一般知能因子によるIQ検査(しかも複数回の総合なり中央値)の様、知能全体のうち特殊知能因子を除く部分の単なる限定的一般化にせよ、まだしもより確実さが高い比較指標があるにもかかわらず、より厳密さのない指標による差別で十分に満足している。真実など必要でないわけだ。
 この様に、学閥・歴差別の思考回路をもつ人々は、単に無知なのを超えて、人々をある単純なランキングによって便宜的に分類するのがその差別観の目的であり、シグナリング理論のよう緻密ではないにせよ一定の根拠に基づいて人事的合理化をはかっているといった意識すらないのである。

 この種の差別観が一典型で結晶しているのが科挙であり、またそれを模した日韓型の受験偏差値差別といっていい。

 既に述べた通り、かれらは思考回路が人々を容易に差別できる分類にしたてあげられさえすれば、中身は厳密さに欠いていても、虚構ですら平気なので、別の差別にも同趣旨で惹かれうる。
 ゴードン・ハドソン氏の説が正しければ、低IQさと差別観の持ち易さ(保守的思考)には一定の正相関があるかもしれない。より複雑に物事を見られないからこそ、順位づけのよう便宜的分類に頼る傾向が残るからである。差別観を持ちがちな人々は常に残り、彼らの方法は時代や場所で変化するかもしれない。

 いうまでもないが、差別観は現実認識を歪めている妄想だ。それによって損害をこうむるのが自分個人ならまだしも、組織だっているとき集団全体に悪疫が及ぶ。よって自集団のいずれかの指標に不合理な差別が残っている限り、それを改良し続けなければならない。この際、差別観をもつ人々は無視すべきだ。
 もし全体主義的多数決によって意思決定すると、当然、差別観の方が多数派を占めるので真実を歪める結果になる。例えば主観に依存しているにすぎない魅力度差別の様なものがそれである。科学的真による、或いはそれら暗愚な多数派をも結果的に利する公徳による判断は、衆愚の無視を要求する。

 社会で指導的役割に就く、又は、より高度な総合的知能を持つ人々は、全ての差別に反対し続けねばならない。それが結果として自集団の協業的合理性をますのは当然ながら、適材適所を害する人事配分はどの場面でも自己自身の損害にもなりうるからだ。
 学閥・歴差別観は反社会的人格障害の一種である。