この世に品性という認知カテゴリーがあるのは、ある社会にとって望ましい利他性の持ち主と、そうでない者を見分ける為ではないかと考えられる。
もともと上品下品中品は仏教語で、仏陀(サンスクリット語の悟った人を意味するbuddha音の当て字)に近いほど上、最も遠い下、中の性をみわけたものだ。
ブッダとは性を否定し、食事も餓死しない程の質素さを乞食暮らしの中で守り、服は糞掃衣と呼ばれる汚れの目立たぬ茶褐色などのぼろきれ(不用品で貰ったり捨てられていたもの)をまとい、家出して定住所もたない、いまでいう究極の生活ミニマリストかつ徹底的浮浪者を指していた。それが最上品なのだ。
しかし近代日本の民法で「乞食」は事実上禁じられ、定職や定住所をもたない者は警察が軟禁可能と、古典的な托鉢僧は被差別的待遇に置かれた。仏法僧そのものが江戸時代頃から各僧門に回収され、墓守として管理されはじめ、今では宗教法人の制度で、さも会社員化してしまった。本物のブッダは消えた。
こうして江戸時代の頃はたみの9割が農民だったものが、ここ150年の近代工業化の末、世俗的労働者(何らかの営利企業に属する会社員又は公務員)となり、その種の「社畜」以外の生態を社会主義的発想で差別しはじめるに至ると、真の最上品者への蔑視がはじまった。これがホームレスへの扱いである。
品性(上品、中品、下品など)は、仏教語に由来する意味では、己の欲望へ肉薄する度合いであり、仏様とかお釈迦様とかの日用語に残存した意味に於いて、上品な人はできるだけ欲望を離れた清貧さを保っていなければならない。これゆえ資本主義経済が展開しても成金が上品とは考えられていないのである。
しかし本来の品は、町人の転化した商人一般の中で誤認されており、名士を意味するcelebrityを和製英語的に芸能人とほぼ同一視し俗語化した「セレブ」に憧れる人々の様、羽振りのいい消費生活をする人達の見栄の張り方、気風(キップ)のよさが、世俗的な見方では上品さと似た様に捉えられている。
町人階級でそうだったよう、禅宗などから仏教の影響度も高かった当時の支配層である武士階級に対し、欲望のままに生きるのを是とする享楽主義が、今の東京・関西を行き来する商人集団間でもずぶで信仰されている。東海道商人は昔も今もそうだったわけだが、この傾向は海外の成金とも馬が合うわけだ。
欧米での状況は、まずユダヤ教の支配階級化した律法学者を、イエスの革命思想によって駆逐していたはずカトリック僧門だったが、彼らもふたたび既得権益化し贅に耽りはじめていた(免罪符など)。カルヴァン現れ新たな革命思想を広め、プロテスタント(抗議派)なる質素倹約を旨とする信徒が出現した。
この抗議派思想(プロテスタンティズム)は、北ヨーロッパで人気を博した。もともと中南部に比べ土地が痩せ、比較的貧しかったところに清貧を是とする信仰がきたのだから好都合な条件があったが、さらに、それまでのキリスト教で蔑まれていた商人に天職(calling)なる自己正当化を与えたのが大きい。
カルヴァンいわく、天は各人に唯一無二の職を与え、それで世に奉仕することこそ救いへの道であり、稼いだ金は贅に費やしてはならず貧者を救うのに使ってこそ神の使命を果たしたことになるという。こうして当時はじまった米大陸への英国移民らは、カトリック系教会とつるむ王室を仰ぐ必要がなくなった。(上記の流れの事後話はウェーバー『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』で分析されている)
要するに、米国へ入っていって先住民を駆逐しながら新イングランドと名づけた大草原に小さな家をつくり、商いを営み始めた元イギリス人らの中で、既に西洋の教会も王室も関係なく、隣人愛が目的だった。
彼らの中には商売で大成功を収め始めるものが出だしたが、究極の魂では今もその抗議派思想によっている、と考えていいだろう。ゲイツやバフェットが億万長者になってからも寄付誓約で賞賛されたりするのはこの為であり、ある面では町橋式の大坂町人倫理と一部は似通っているが日本とはかなり別物だ。
(大坂町人らは自腹で半公共財といえる町橋を架けていたが、本質的にみずからの商いの都合によっていたわけで、純粋公共財として浄財を目的にしていたとは考えづらいからである。尤も京都の石田梅岩の私塾経由で、天職思想に近い職業観を植えつけられていた点は、ピルグリムファーザーズと似ているが)
New rich・Richistanとか日本(東京)ならヒルズ族・新ヒルズ族と呼ばれた人達と同等のIT系億万長者らが出現したアメリカで、古きよき清教徒らしさを根底に保っている人は殆どいない。だからこそ、逆説的に、一部超富裕層の寄付誓約によって名誉が得られる。ここでは上品さのねじれた構造があるのだ。
結局、資本経済の浸透が、新自由政策下でどんどん進んだここ最近の日米で、上品さの定義はかなりねじけている。既に大部分の日米人に、乞食は上品と思うかたずねたらためらいなくNOというであろう。だがそれは、根っから間違っているのである。彼らは商人生活に慣れすぎ、自らの欲望に近すぎるからだ。
現実に、上座部的な托鉢僧の乞食ぐらしをしているブッダは、チベットとかブータンとか仏教国ではきちんと沢山いるし、その脱俗した世捨て人の態度こそ、本来の上品さの定義である。逆に隠者文学の伝統もある日本での、無職ニートなどの分類で俗世に背を向ける人達への甚だしい差別こそ、真の下品さだ。
基礎所得、負の所得税、一律貸与など最低限所得保障は、生活保護への相当数の日本商人からの蔑視をみればわかる様、この島国で汚名を着せられている。だが世界規模でみると国連幸福度が高い高福祉の国々で常識的に社会扶助が利用されている。社民政策が不当に攻撃されているのは冷たい国民性だからだ(世界寄付指数10版によると、日本人が世界一人助けしない)。
日本商人は上品さを派手な消費生活と混同し、あるいは世俗化した皇族の見栄のよい名士暮らしと考え、贅沢に憧れている。若いほどヒカキンの浪費チューブを幼児から見続け完全に、その種の経費成金ぶりに脳をやられているので、もはや無一文の仏へは当然ながら、質素な家庭を尊敬どころか哀れんでいる。
ここまで品性の根本定義が堕落してくると、孔子が乱れた国をどう治めるか問われ「まず言葉の定義を正す(名を正す)」としていた深い意味も、明らかになってくる。新渡戸の『武士道』では、サムライは貧しさを誇っていた。それは自分の品性が命じるところ、利益追求は卑しい下流階級の業だったからだ。
どの時代にあっても、最もとるにたりない凡庸な多数派が下流と定義されざるをえなかったのを思えば、欲望肉薄を職能とする現代商人(会社員)らがそれにあたる、と未来からはみえるであろう。ところが彼らの価値観はまるきり転倒していて、収入ピラミッドを描いて金を儲けている上司ほど偉いという。
彼ら平成商人(特に会社員をターゲットにした雑誌『プレジデント』等が代表する様な、東京商人)の価値観では、欲望に忠実な人、かつ、社畜位階制の中で金を儲けている人ほど偉い。この外にいると(例えば自営業者や教授、作家など)彼ら会社員にすると比較対象にならないので、無視されているらしい。
ゾゾの元社長・前澤氏とか、ホリエモンといった人達こそ、彼ら東京商人の神々であり、ブッダは全然そうではない(寧ろ蔑みの対象)。そして東京商人は土台から転倒した品性を完璧に自文化中心に狂信しているので、金儲けは乞食よりはるかに優れて上品と考える。寄付は全く尊敬されず、逆に妬まれる。
自分にいえるのは、では自分も彼らと同じ品性観をもてるかなら、全く無理ということだ。実はこの2~3年、私は比較的苦手分野だった商業について徹底し猛勉強した。そしてプロと称する人達の誤りにもかなり気づける位になってわかったのは、一流以上の商人は決して凡俗の会社員と同じ考え方ではない。
並の商人は、一流以上の商人から直接学んでいない。それでコストカット意識など初歩以前の文法を全く知らないまま、高収入自慢に耽っている場合など、商人間にも多大な格差がある。超一流以上のレベルになると、資源最適配分による慈善事業のステップだったとしか思えない様相を呈するのが商いである。ひとは一流以上を見習うのと、二流以下にそうするのとでまるで違う結果に行き着くものだが、商行為を全く抜きに生きていくのをほぼ違法行為や迫害対象にしている偏りきった商人社会でなお上品さがありうるなら、それは過去の文明でそうだったよう、利他的な行いをくり返した人にあてはまる形容である。
功利主義に質を認めたミルは、まさにこの点を快楽の定義に導入したのであり、需要と呼べるあらゆる人の欲求の中でも、その直接性を否定させる程度が高ければ高いほど、その需要は質が高いものといっていい。成金自慢のインスタ映えに混乱している人の上にあっても、この金星は常に我々を照らし、導く。
つまるところ、人はブッダを模範としていればよいのであり、ある文化で快楽消費が公然と行われ人々が幸せそうにしていても、それを羨みあるいは真似るより、克己により自分の労をより恵まれない人々が少しでも幸をえられるよう振舞えてこそ、尊い。この点で上品さは、資本主義下でもなお可能である。