2019年12月30日

なぜ天皇・皇族の民間人化が必然といえるか

武士道と町人道という2つの大きな倫理観が日本人の脳裏にあって、この2つは常に相克しながら今日の混乱をうみだしている。
 しかし大まかにいえば、前者は公務員の、後者は商人の道徳である。公務で私利を追求したり、商業で義を利に優先すると失敗を招く。
 孔子が「小人は利にさとり君子は義にさとる」といい、石田梅岩が「職業に貴賎なし」にあたる教えを説いていたのは、おのおの、孔子が公務員の、梅岩は商人の心得を語っていたのに等しい。
 公務は公益を常に私利に優越させねばならないし、逆に商業では利益追求が事業継続の最低条件になる。

 これら2つの職業観は、そもそも職能の違いに由来しているので、究極で交わりえない。ある人が公務員になって公害にもかかわらずわたくしの利益追求を主張したり(職権違反)、同じ人が商人になって他社との義理のため自社利益をみすみす捨てたりすると(企業協定)、いずれも社会に不都合が生じる。
 アリストテレスは正義を2つに大別し、それぞれ普遍的正義と個別的正義とした。普遍的正義とはいついかなる場合にもあてはまる正義、個別的正義は時と場合によって異なる正義。さらにかれは個別的正義を配分と調整(矯正)に分けた。配分は能力に応じて成果を分け、調整は生じた不公平を適宜整え直す事。

 現代の社会を最も大きくみると、資本主義社会と共産主義社会の2つに分けられる。これらの間には無数の濃度があり、両者が両立し入り混じっている状態もある。一般に両者の中間状態を社会主義という。
 ここで、武士道と町人道にもどると、資本主義の規則は町人道に、共産主義の規則は武士道に近い。
 また町人道は配分を、武士道は調整を行う為の道徳である。したがって次の様に分類できる。

武士道―調整―共産主義―公務
町人道―配分―資本主義―商業

これらは極めて大まかな分類だが、両者の道義を混同するとき、我々の社会に紛争が生じる。異なる行動原理が必要な人々が、他方を責めるからだ。

 マルクスは『ゴータ綱領』で共産主義への過渡段階と社会主義を定義した。彼のいう共産主義の最終目的は身分差や不平等がすべて解消された完全平等社会といえる。しかし原始共産制(日本なら縄文時代以前)の社会では、獲物を保存する方法がなく、大盤振る舞い(ポトラッチ)でこれは実現済みだった。
 一方、農耕の発展以後、穀物を保存可能になって、貧富差が生まれた(日本なら弥生時代以後)。同時に不公平をめぐる争いがはじまった(縄文期以前の遺骸にはみられない撲殺痕、埋葬物の差から階級闘争が弥生期以後生じた、と考えられる。やがて最大の富者が部族長となる王政に至り、古墳時代になる)。
 不公平が世襲(世代間で固定)すると、王侯貴族がうまれた(日本なら天皇、皇族、公卿、公家、武家、華族など。飛鳥時代から始まる)。
 孔子は王侯貴族がいかに振舞うべきか説いた。
 彼らが公務員になるのにあわせ、食料を作る農漁業、道具を作る工業、流通させる商業などが職業分化していった。
 石田梅岩は各職業の必要に差はないと説いた。
 アダムスミスはこの状況下で、農工商の交易を自由放任するのが各職業の専業効率により、結果として社会全体の得になる、と資本主義の起源といえる考えを『国富論』に書いた。それまで士(公務員)はしばしば力を乱用し、各職業に干渉していたからだ。
 しかし資本主義が進展すると、もともとあった不公平も甚だ大きくなった。特に貨幣経済の浸透により、事実上無限に蓄財できる金銭を貯め込んだ金持ち(資本家)と、無銭に等しい貧乏人(労働者)の差が広がり、見るも無残なありさまになった。ここにマルクスという読書人が理想の未来像を書いたのだ。
 武士道は孔子の考えを仏教・神道などと混成させつつ日本独自に改良し、中世のおもたる公務員だった武士の間で不文律となっていた倫理観を起源とする(新渡戸稲造の主著『武士道』(英文原著:"Bushido -- The soul of Japan")による)。彼らは利益追求を賤しみ、義務の遂行を目的とする調整の担い手だった(但し、薩摩国、長門国など政府の借金がかさんで商社化していた国もあった)。
 武士は利益追求を原則として他の職業へ任せ、自由放任していたので、250年ほとんど外乱・内乱のなかった徳川時代に日本経済は進展し、江戸は世界一の都市人口に至っていた。アダムスミスの本はまだ輸入されていなかったが、偶然にも孔子の利益蔑視は、資本主義と似た市場環境をもたらす結果になった。
 特に工業において、蒸気機関が発明され進んでいた欧米の技術が流入すると、日本は近代化し、同時にアダムスミスやマルクスの考えも入ってきた。明治憲法下では天皇・皇族の下に華族の階級が敷かれており、やがてGHQが華族を廃止するまでマルクスの考えを奉じる共産党は表舞台に出てこれなかった。
 その後も天皇・皇族は日本政府を使い、階級廃止を掲げる共産党を弾圧してきた。現時点でも破防法の対象にしているのは、単に暴力革命を否定しない過激派がいるからだけでなく、天皇・皇族の地位を失わせうるからだ(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』等によると昭和天皇はGHQと共謀していた)。
 資本主義のほうは順調に町人道と混じりあい、急速な近代工業化にはじまり日本は二度の大戦を経て世界2位の国民総生産に至った。
 共産主義の趨勢は、寧ろ中国が先んじ、文化大革命で皇帝制を廃し、資本主義と並列する一国二制度で階級差別のない市場を作った(少数民族・香港弾圧など強権傾向はあるが)。

 結局、人類史の流れから見直すと、そもそも天皇政体の腐敗を正そうと平安期に最初の武士たる平将門が新皇と名乗るところから興った武士道の第一目的は、政治による調整の実現だったのであり、天皇・皇族という世襲階級も遠からず撤廃されるだろう。これは歴史の必然で、米国や中国が進んでいるだけだ。
 なぜ天皇・皇族の廃止(民間人化)が必然といえるかなら、政治はおもに調整をはかる働きだが、そして完全平等をめざす共産主義がその今日の根本原理といえるが、必ずしも政務能力が遺伝しないとしられていなかった古代の名残による公務員の世襲は、公益を損なうからである。
 たとえば最も実務能力の要求される株式会社の経営者(最高経営責任者、CEO)にあって、世襲は必要条件でなく株主投票で最もふさわしい者が選ばれる。名目君主(象徴天皇)が無能でも世襲し続けるお飾りなら、そもそもそれは調整に逆らう。政治の職責は社会的不公平を整え直す事なのだから。