日本的な周りの足を引っ張る風習(古くは和と呼ばれる。一時期KY・空気を読めといいながら同調圧力を正当化していた人達がいた、自分は都内で1人会った)は、「元は」結果平等を志向する或る種の優しさにも遡源があった様に思う。実際、弱い者いじめ男がいると虐められる側に女性陣が同情するみたいな場合がある。
しかしこの風習は、一般には優れた人を陥れ、匿名衆愚が悪意で群れる擬似的安心の全体結束主義に使われている。
ねたみの本質的機能は、元来は、集団の間に極端な結果不平等をもたらさない為の、或る種の調整的意志、調整正義と関係しているかもしれない。だがその機能を超え、脳内の同じ部位(前部帯状回と線条体)が援用されてしまい、単なる悪意ある振る舞いに転嫁される場合がある。それが匿名衆愚の例だろう。日本人衆愚は、一般に強者に媚び諂い、弱者を集団虐殺する。このとき調整的正義は全く機能していない。またこのとき彼らのほぼ全員は群れに混ざることでの擬似的安心を得るのが目的なので、罪恥を感じない。
日本人衆愚は、この集団的蛮行の中で、自己責任を持たず、全体責任に悪意を転嫁する。その最終的責任転嫁先は、彼らの狂信する天皇になるが、天皇自身も同質の悪意で、責任転嫁を適当な信者へ向けて行い、その標的となった特定の信者が犠牲になるも、結局、誰も責任を取らない。こうして日本人衆愚は、元々、調整的正義の為にあったと考えられる妬みを常々、彼らが擬似的安心を得る目的に濫用している。これが我々の「虐め」として認知する社会現象である。その全体結束主義的悪巧みの究極目的は、天皇の保身と役得維持の為の責任転嫁としての、特定信者の犠牲である。
本来、他国で一般にそうある様、妬みは調整的正義の目的と一致する場合のみに、社会的に良い機能になる。それはロールズ正義の第2原則「最も恵まれない者の利益最大化」でなければならない。だから日本の「虐め」はこの真逆の集団的悪徳であり、風土病、民族病であって、断固撲滅されねばならない。
また日本人全般が半ば無意識に信じている「和」と「天皇」は、上述のようこの「虐め」を国家単位で生み出す2大原因である。ここで擁護されるべきなのは和に対する個であり、天皇に対する国民である。虐めではなく人助けが日本人全般に最低必要な行動原則であり、和と天皇を否定しなければならない。