2019年10月23日

慈悲を乗り越える試み

PCが壊れて大変なところで、他人を思いやって誕生日を祝うことばを書いたら、その人がいつものサイコパスぶりで、私の住む県を差別してきた。その人はいつも誰かを傷つけたり、不幸にするのを楽しむといった典型的荒らしかつ性格異常の狂人なのだが、私は長い間その人を見てきて、一体こんな狂人を誰かが愛しうるのだろうかと、おそらく自分以外の人間には不可能ごとなのではないかと考える様になっていた。
 だが先程気づいたのだが、現実に他人を不幸にして楽しむといった性格は、今後もその人の中で変わらないだろうし、仮に世間体をいかに取り繕った所で、現実に誰かと親しく接する中では常に、その相手を不幸にいざなうのだから、今後ともその人と長期的関係を結びうる人などおそらくどこにもいない。
 それは私とて同じだったのだ。
 自分が超人かつ神格だという前提に立っていた。だが自分が弱りきっている時に、しかも相手を思いやってことばをかけているのに、悪意で差別的偏見をもち、且つ酷く侮辱を重ねてくるという人格に、なにか救いがあるだろうか? 当然だがその人は不幸になるべきなのだ。
 私は慈悲深すぎた。
 不幸になるべくしてなる人を救う必要など、どこにもなかった。この世で救われるべき人がいるとすれば、それははじめから善良な人、しかも善業を重ねてきた人で、悪業三昧して恥じぬ人物に救いの手など必要ないのだろう。悪人正機説との決別。あらゆる業は必然性をもつべきだ。

 思えば私は何度も何度も、その人に酷く傷つけられてきた。私だけではなく私に近しい人達までも。それは相手が嗜虐快楽の極悪人だからなのだが、私はその人に慈悲なり慈愛なりで接するのが正しいのだろうと自分で自分を思い込ませていた。だがそれは自分の自尊心や良心を満足させる為でしかなかった。
 私自身の自尊心や良心を全く無視すれば、極悪人など救われるべきではないし、そのまま地獄におち最大の苦しみを味わうべきなのは疑えない。なぜ自分は蜘蛛の糸を垂らしてあげようとしたのか? 正に、善意の名を借りた自己満足だったのではないか。
 この点で今日は大きな学びを得た日だ。

 極悪人を救うことで、自分の良心を満足させようとする菩薩の心、聖人の心。だがこの慈悲の感覚そのものが、自分には障害なのである。慈悲を乗り越えねばならない。その種の思いで接する限り、極悪人が因果律に従い、然るべき結果を得るのを妨げてしまうのだから。無差別的な慈悲のうち、最も恵まれない人へのそれが最も優れているという自分の良識は、相手が極悪のとき必ずしも正しくない。だがこの考えに到達するまで私はかなり大変な遠回りをしたものだ。なぜこれが正しくないかを理解するには、自分の場合、抽象的なものではあるが、経験が必要だった。
 ロールズ第2原理のうち、「最も不利な人」が同時に、当人の悪徳ぶりでそうである時、慈善の優先順位は明らかに変更されねばならない。この不利さの原因が真実なにかを見極める必要があり、悪徳をもつ当人の卑しさな時、この人を優先して救うのは違っている。「最も善良にして不利な人」が正しい。即ち慈悲まじりの性愛(いわゆる物の哀れ)で他人と接し、その相手を救おうとする様な時、やはり慈悲の緩和条件なしには相手の因果律を乱してしまうのだ。
 救われるべきでない悪性者に、善良な人と同じ結果を巡らせようとするのは間違っている。物の哀れで他人に接しても慈悲に等級が必要なのだ。
 悪性者が不幸な結果を得るのは業があるからで、我々はこれに善良な者の不幸と同等以上の同情心をもつのは間違っている。しかしこのことをはっきり書き残してくれた著者を、私はまだ知らない。アガペーの詳細が無差別的で非緩和的なものとして描かれてしまい、それでは因果律が機能しなくなるのである。

 人は、徳に応じた結果を得る。
 私は、南関東や、関西・中部・北陸地方、あるいは仙台市や札幌の人達と接するまで差別という現象を目撃したことがなかった。だが彼ら一定より大きな都市圏に住む人達は日常的に、自分を上に置いて差別をまきちらし、他人を住所や出身地で罵っていた。つまり私は「卑しい人達」を見たことがなかったのである。その卑しい人達の中で頂点として崇められている邪教祖こそ、差別主義の権化であり元凶だったが、彼ら卑しい人達はその教祖に暴力や洗脳で差別されると同時に、その悪徳を真似して、別の人々を一方的に差別していた。
 私はこの構図をみて、それら「卑しい人達」が破滅するのは当然と思いつつも、彼らを一時期、なんとか啓蒙しようとした。私は若く、人は変わりうるという信念をもっていた。だがおよそ10年ほどあらゆる試行錯誤をした結果、「上智と下愚とは移らず」と孔子がいった意味を完全に理解した。彼ら「卑しい人達」を変えるには、脳の遺伝子そのものからとりかえるか、さもなければ皇室を廃止し、差別主義者が集まっている大都市圏を滅ぼすしかないであろう。だがその様なことは現時点で不可能である。我々にできるのは、その種の「卑しい人達」とできるかぎり縁を切ってくらす工夫でしかない。
 また「卑しい人達」が反省し、彼らのもっている差別的偏見が変わるだろうと考えるのもおよそ大いに間違っている。彼らは愚かで主体性がないがゆえに、マスメディアを操作する側、即ち天皇に都合がいい愚民として奴隷化されているのだし、彼らに反省力がないかぎり今後ともそれが変わる余地はない。もし神道による洗脳が政治上の革命で終わっても、次は資本主義による洗脳がある。次は多数政治の洗脳といった風に、衆愚が差別をくりかえすのは一向に変わらないだろう。彼らの邪悪さが改善するとしても、法的な制裁によって、強制的にしか変えようがない。だから彼らと接するのは公務員の職責なのだ。

 悪質な衆愚と接することそのものが、悪徳の一種である。勿論その機会が少ないほど幸が高い。そうであればなぜ自ら進んで、慈善になど励むのか。恐らくそれは正しい行いですらない。良心の満足を得る為の、偽りの善意。
 もし慈悲を乗り越えられれば、もはや人間界の有様に一切深入りせずに済む筈だ。