2019年10月4日

物語消費と計量化できない物や奉仕の質について

昔、会津に行った時に雪駄というのか平たい下駄を買った。現地の木を使った工芸品みたいなので実際に履けるやつ。そしたら店のおじさんが「ユニクロで1000円で買えるよ」といった。さっきまでその言葉の意味がわからなかったのだが、今、多分親切のつもりでビーチサンダルと比べたのだろうとわかった。
 あの時から10年以上経つが、自分は都心というか学校あった新宿副都心へすら一回それを履いていった(都庁の方に向かうサラリーマンやホームレスの間を)くらいで、板の感触が気に入っていたのだけど、さっき庭におりて演奏してくれてる虫に余ったりんごと柿あげようとしたら、雪駄の鼻緒が崩れていた。それでふとあのおじさんが、まあいかにも会津人、福島人、東北人らしい言い方で、完全に利他主義に基づき僕に、しかも長州山口のユニクロのビーサンを、自分の店の然るべき雪駄と比べ、謙遜じみたことをいったのか、意味に悟った。「私の儲けはいいから、安物が節約になりますよ」と言おうとしたのだ。
 僕は買った時は20歳か21歳くらいだった気がするが、多分子供に見えたのだろう。それで子供がそれなりの値段(といっても2~3000円、最大でも5000円以内だった気がするが)がする雪駄を択んでいるのは、僕は自分の和風趣味で買ったのだけども、多分勿体ないと考えたのではないだろうか。自分的には、東京の下らない店だのユニクロの安物を買うより、その会津の地味な店で自分に買えるだけ高い物を買って、一種の地場振興にしたいわけで、当時もそういう意図があって街を見てそれを買った。東京からいった都内の人らはケチで誰も、冷やかすだけ冷やかして何も買わないのだ。酷い連中だ。

 自分が10年以上、15年近くつきあったその雪駄の鼻緒は、今後直らないかもしれないけども、そしてユニクロは大いに調子に乗って上場企業の中でも羽振りを利かせ社長も最大の高給をはんでいるかもしれないけども、本質は途上国の搾取でしかない。だから自分は登場初期を除いてユニクロが嫌いなのである。登場初期の頃、つまりは首都圏でいうと某フリースの頃は、それまでアパレルブランドが高値を乗せて暴利を貪っていたのに比べ、安価でシンプルな上にカラフルでお洒落ぽく機能的な服をしかも通販までやって売り出していたので革新的な感じがしていた。最初、高校の美術教師が着てきたくらいだ。
 しかし余りに流行りまくると、段々とユニバレとか、挙句は社長が暴利を貪って全員100万でしょうがないとかいいだしたり、震災時も広告ぶちこんできたり、中国店舗でも釣魚島問題起こしたり、結局、お里がしれてきてうんざり度がマックスになっていった。英国ブランド化しようと高くしたりGUだしたり。
 そんで、僕はこの名もなき雪駄が15年間も身近にあって、色んな夏に様々な場所をカランコロンいっていたけども、物とはこういうものでなければならないと思うのだ。あの店主だか店のおじさんは、自分から付加価値をとったけど、それは自分からするとユニクロのビーサンより遥かに価値があったのだ。

 もし本気であの時、そのおじさんの忠告を真に受けて「んじゃユニクロで買います」といい実際そうしていたら、自分の人生の、足の裏の感触と思い出の重要な部分のかなりの所は、おそらく間違いなく吹き飛んでいたであろう。自分にだけ感じられた夏の涼し気な風情は、まるきり台無しである。で、換金価値、ないし付加価値と世にいっている経営上の原価に上乗せしてある儲けだけど、この部分の金銭の量って、しばしば、ただの量的なものではないのである。だから自分には金銭量では同じかもしれないユニクロのビーサン10個だか20個より、この雪駄のほうが、遥かに価値があったのである。
 そしてこの付加価値の部分に、例えばユニクロが、ぱくってほぼ似た様な雪駄だしてきてそれが値段的に1999円とかだったとして、「まーたバングラの工場だろ」ってなってしまった時点で、会津の職人が木を刻んで彫って、ヤスリ掛けた代物(なんだろう多分)がほしいのである、私は。それは会津だからだ。
 ここにもう一つ重要な観点が潜んでいるのだが、もうどの店で買ったかすら定かではないこの会津で買った筈の雪駄なるものは、多分ブランド品ではない。伝統工芸かもしれないがそれを記憶までしていない。即ちブランド価値と、物の価値はズレがある。ユニクロのビーサンのブランド価値は安物さだ。
 現代の商品奉仕は、この2つの面、つまり
1.消費者は物語消費をしている(会津の歴史的位置づけから、私は山口ユニクロじゃなく現地の工芸品を買って愛用し、無意識に、会津戦争への弔いと会津藩士への応援をしていた)
2.物の質は必ずしもブランド価値や値段ではない
を、正しく認識していないと思う。

 全く素朴な意味で、まあいかにも会津人的な善良さの塊みたいな感じの店主が、子供みたいな客へ商売するに気を使って、労働力落差でボロ儲けしてる輸入企業(貿易赤字の原因)の安いビーサンあるのに国内地方の高い工芸品を買ってもらうのは心苦しいな、といわんとしての接客含めて物語消費だったのだ。
 自分は15年間かけその雪駄を履き古した結果、今さっき気づいたのである。なんで新宿の真ん中に敢えてこれを履いていったかなら、自分の根底にある、福島の誇りみたいなのが関係あったのかもしれない。一応、祖母は福島人であるし、墓も福島であるし、高校も福島だ。会津人の魂が宿っていたのだ雪駄に。
 途中で原発災害と大震災をくぐり抜けて今に至るけど、その時は鼻緒締めてる暇すらなかったし、ユニクロだか無印だかの今はなきモコモコ系スリッパのまま逃げた気がするが、それだってもうとっくにない。結局は質の高い物をそれなりの値段で売る方が、デフレで安物を売りまくる企業より偉いと思うのだ。

 GDPに現れていない部分として、また企業の営業利益だの経常利益だのに現れない部分として、新たに経営を見直す必要があるだろう。既存の量的な分析手法では、経済の中にあるもっと深い満足度は測れない。ユニクロならすぐ捨てるだろうが、会津の工芸品なら直したいのだから、消費自体の質が違うのだ。