2019年10月14日

現代アートはなぜ下らないか

この一ヶ月、色々な人間と接した内、一番うんざりしたのは「自称現代アート通」の人達の野蛮さと俗物加減である。そして僕自身、この美術と呼ばれる分野に相当に深入りして20年も経つので、ある種の深刻な自己反省を伴う失望の経験として、偽物のアート通なるものの卑しさに呆れ返った。
 この自称アート通の人達は、細分化し多様化した現代アート、特にコンセプチュアル・アート以後の仮設的なものを中心とする、先端気取りの素人参入が容易な分野に雲集しており、簡単にいうとスノッブが文化人気取りするのに都合がいい共有地の悲劇みたいなのが起きている、酷く低俗な領域があるのだ。
 簡単にいえてないかもしれないが。ともかく、その領域は吐き気がする様な俗人が、とかく上から目線で知ったかぶりながら、逆に現代アート含む美術の玄人を侮辱三昧するのが常態化していて、この領域は正真正銘の危険地帯である。近づかないに越したことはないが、そこが溢れ出たのが件の愛知だった。

 元々、素人と称する某記者にとって、この危険地帯は乗っ取りに凄く都合がいい領域だったと思う。というより、参入障壁がコンセプチュアル・アート系に関しては物凄く低くなっていて、ハーストが煙草の吸い殻をアート扱いみたいなデュシャン的文法を認知さえしていれば、誰でも現代アート面できるのだ。
 裏を返すと、例えば日本でいえば芸大の先端芸術表現科界隈を少しでもしっていれば分かると思うけど、肩書馬乗りプロレスが素で行われていて、リヒターも手記でいってたが「何でもあり」なのが常態である。そこで真面目ぶったり真剣ぶったりしている人も、軸のない批評ぶった人格毀損ゲームをくり返す。

 まあいつものごとく「悪い場所」性を現役バリバリでしかも100%体現しきっているのが、このTHE現代アート界、特に仮設性の高いパフォーマティブな領域である。なんでかというと、そこは参入障壁が風雲たけし城より低い最低レベルまで下がっている上に、素人を楽しませるロウブロウと接しているからだ。
 たちが悪いのは、例えば同人誌を素で売り買いしてるガチオタとか京アニ礼賛サブカル俗物ならまだ、自覚的ロウブロウだから、幾ら俗物根性といっても高がしれている。だがこの現代アート俗物の方はそうではない。今回の愛知で干潟に現れまくった奇形生物みたいなのは正にそれで、要は人でなしの空間だ。天皇陛下を踏みにじっていいでしょ国税で、とか、憲法表現の自由は何でもありでしょ、特に一条の象徴なんて辱めても国旗損壊罪があるでも不敬罪があるでもなし、ありじゃん、とか、ど偉い大東京のヘイトアート文化人様に公金よこせとか、ダブルスピークとかゲンロンセクトとかこの程度生易しい。
 なんというのかその現代アート俗物の体現している悪質さ、醜悪さ、陰湿さ、肩書馬乗りゲームの悪意は、もっと吐き気を抑えるだけで精一杯となるくらいとんでもないもので、具体名あげると個人の名誉に差し障りがあるから相手の死後にでもするしかないが、要は権威を乱用し諸々の蛮行を正当化するのだ。

 元々、僕は芸術祭とかいってる物、トリエンナーレであれビエンナーレであれ、重要な個別作家を除いて本当に下らないと思っていて、一度も近づいた試しがないし今後も近づかないけど、元々その種の地域おこし的扱いで美術なるものを使うのは、行政が一般大衆へ奉仕するものな限り、低俗さを免れない。
 本当に重要な作品はひっそりとあるものだ。僕が思い出すのは全く別の展覧会みにいった時、茨城県立美術館の常設展示室かなんかに置いてあった春草『猫に烏』に本当に仰天し感激した経験である。写真でみるのと全く違い、品位が恐ろしく高く、存在感が圧倒的で、自分の最高値だったウォーホルを超えた。けどこれは、僕が高校の時から網羅的に世界美術全集だの何々美術史だの色んな作家のレゾネだのをばかばか情報つめこみまくって、なおかつ画学生として足繁く展覧会に通いまくってもう満腹でいいや、ダビンチ『白貂を抱く貴婦人』ああねとなってるなか不意打ち食らったからで、大抵の人は見逃すと思う。
 多分後世の参考になるかもしれないから書くけど、特に学校とかで油絵から始めると、いわゆる西洋美術から入ることにどうしてもなってしまう。だから日本画、日本美術はあんまり見ないというか舐めていると思う。でも欧米系を網羅してからその全知識を使って日本の伝統美術を見ると、まじで衝撃受ける。日本の伝統美術は、確かに明治以後はかなり舐められてきたと思うし、今も「現代アート俗物」から舐められている場合が多いと思うが、ジオットからミスターまで網羅した上で、ちゃんと春草ら明治人がどういう意図で琳派の表現をとりこんだか生で見直すと、そこにある独創性と品位は全く馬鹿にできない。
 勿論琳派も、大和絵は特に印象的なのなかったが、水墨画も素晴らしいと思う。以前国立博物館だったかで対決巨匠たちの日本美術っていう展覧会でみた。1階にはいわゆる土偶も縄文土器もあった。まあキュレーションのメッセージでもあったろうけど、大観は誇るべき画家だ。世界になんら引けを取らない。要は、この明治人らの内、洋画かぶれにならず(無論小磯良平も生で色々みたけど、うーんよくできているのは確かだけどどうかなと思った)、独創的表現を独自の伝統を参照しながら試みた人達の偉大さは、私は直観的に一瞬で春草の屏風でショック受けたけども、未来でも変わらないと思う。玄人の空間で。

 話が茫漠としてきたから本題に絞ると、「THE現代アート界」は、その種のある種の玄人的感激を呼び込む世界では、正直全然無くなっている。なんでかというと表面的な刺激とか華やかさとかスキャンダリズムとか話題性とか、政治トピックとか論争を呼ぶ報道性とか、通俗的紛い物が跋扈しやすいのである。
 特に、僕も若い内はテストステロン性なのかロックじみた内意で、日本美術なんてだせーぜと思っていた。が、少し大人になってくると、あれだけ小馬鹿にしていた平山郁夫が、死人みたいな顔の老人らの真ん中に天心を白馬にのせて描いた心情みたいのが、朧気ながら分かってきてしまう。笑えるが。
 なんというのか、勿論シミュレーショニズムだのリレーショナルだのアプロプリエーションだのスーパーフラットだの、理屈はわかるし、現代アート俗物の興行性の中には、ロウブロウを混ぜた集客話題作りのディスマランドみたいなのが大手を振るって競売界と繋がる悪趣味な米英性があるわけだ。かといって東京銀座性というか、THE画壇みたいのもガラパゴス芸術院馬乗り社会みたいなので、そっちも別の官風的閉鎖性はあるにせよ、戦後米英的な競売美術界秩序の方が偉いとも全然思えない。あと南米アート通ぶった複数人をみた感じ、感情論的反抗文化スノッブみたいのもなんかなと思ってしまった。
 で、THE現代アート通の俗物根性がろくでもないのはなんでなのかというと、サブカル俗物と一緒で、お前の見聞きした部分は他人がしらなくてもみてなくてもどうともない、どうでもいい様な断片なのに、なぜか主観的に知ってりゃ偉い風に他人を侮辱しまくって恥じないその狭量さが害悪なわけである。これは上述のよう、サブカル、あるいは日本の伝統美術、米英ハイアート、その他の地域美術、あるいはKPOPとかCPOP(中国ポピュラー音楽)とか色んなのについてもいえる。もっというと学会も似た様なもんで科学の殆どは細分化して網羅しきれないのに一部しってりゃ威張ってやがる。そこも俗物なのだ。

 大分、論が複雑化してきたが、まとめると、価値相対主義からみると、現代アート通なんざほぼホビーの領域というか、しってもしらなくても威張れもしないし、THE教養ともいいがたい世界なのである。んで、THE教養を仮に哲学と総称するとこれもまた甚大な規模だから、はっきりいって全知は無理であろう。
 だから哲学からいうとソクラテス的な不知の自覚だか未知の自覚だかに立ち返るしかない。なにせ図書館の全ての本を読み尽くすには人生時間が足りない。そのうえ情報はさらに爆発し続けていて、一専門分野の全論文だけでも到底追いつけない。現代アートなんざ巨視的にエントロピー増大自体みたいである。したがって、現代アート通ぶって、自分は知者ですよといっている人達って、一言でいうと現代のソフィストなんである。その人達が仮にアカデミックな美術史として古典を網羅してみたとて、はっきりいって主要な西洋諸国と米国の一部みただけでしょとなる。日本や東洋入れても文化人類学野は? となる。もっというと地球外の現象は? とか別の宇宙は? とか多世界解釈は? とか地底のアート(広い意味で自然の創作も技ですので)は? とか、微生物界とか原核生物界とか量子界とか、見尽くすなんて到底できっこない。主要先進国の俗物ゲームというしかない有様が、冷たく現代美術を覆っているのだ。
 その俗物ゲームを発狂済みニーチェはん(必ずしも発狂済みでなくてもよい)と舞踏し、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』みたく踊るんだネズミ、とかラストでいってたとて、まあ正に村上隆殿の現状なのかもしれないが、日本人って割と冷めて見てると思う。僕もだけど。クールクールはいはいと。だからインスタで、ハーストに1万回イイネついてようが、お前は蝶々を逃がした少年版茂木健一郎の一行に如かずと芥川が引用した詩の一節みたいになっていくわけで、正直、誰が有名だろうが誰が中学生自慰ティクトカー(晒すな)だろうがどうでもいい。河野太郎の馴れ合いツイートばりにどうでもいいのだ。
 結論は「現代アート、どうでもいいな」でおわるのだが、そしてそのどうでもいい現代アーチストの極貧もどきで田舎差別にあらがってる茨城人ジェントリならぬ郷士もどき(福島原発事故で先祖伝来の土地とお墓が汚染されたので東電都民にお怒り)なのも僕なのだが、とにかく、現代アートは下らない。