マウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)『9時間目』("La Nona Ora ")*1
嶋田美子『焼かれるべき絵』*2
*1画像ソース
https://farticulate.wordpress.com/2010/10/21/la-nona-ora-the-ninth-hour-1999/
http://www.diptyqueparis-memento.com/ja/%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%8A%E3%82%AA%E3%83%A9/
https://christofscreations.wordpress.com/2016/09/12/maurizio-cattelan-sculpture-with-meaning/
https://images.app.goo.gl/emV99r9KSfXs6ziK9
*2
画像ソース
https://censorship.social/artists/shimada-yoshiko/
https://twi55.com/tsuda20190806/
動画ソース
https://twitter.com/jocx_tv_kawada_/status/1157562032561876992
https://twitter.com/jocx_tv_kawada_/status/1157553747393781761
自分は、カテランの当該作品はみたことは多分なかったと思うが(あった様な気もするが)、そしてこれがその女がいっていたがカッセルのドクメンタに展示されていたというのは、もしそうなら確かに知らなかったのだが、そして一瞬だけみて、まあローマ帝国とゲルマン民族の文脈ならあるのかなと思った。
で、その後1週間たって先程改めてこのカテランの作を見返してみて思ったのは、これは嶋田の天皇踏み絵作品とは、置かれている文脈は、私の最初に感じたゲルマン・ローマ帝国の関係とは全然違う部類と捉えたとして(別にカッセル以外でも展示されてる様でそう捉えるのが自然の様だ)、全く違う。
カテランのローマ教皇は、作者の言葉によると、隕石が偶然ぶつかって苦悩する喜劇的な状況で、人類の苦悩を背負うという、いわゆるパウロ式の原罪を皮肉る文脈に置かれている。で、この状況は可哀想でもあればコミカルでもあるし、人類というか一部の市民が勝手に濡れ衣着せて磔にした自称神の子キリストは、実は隕石の様な人類の暴力に晒されただけなのかもしれないと、パウロの贖罪思想を疑義し直す新たな視野を拓いている代物といっていいだろう。まあユーモア表現である。
でこれをローマ教皇を侮辱する表現だ、とはちょっといい難いというか、この作品を、日本国憲法一条の象徴への、富山県による天皇タブー系作品・図録焼却事件を皮肉る文脈で行った踏み絵作品と、単なる「教祖への冒涜」「聖像破壊」の論点から安直に同列化できないと思う。なぜかなら、カテラン作の方は根本的にユーモアの含まれる喜劇的表現で、しかもキリスト教そのものへの根本的新解釈を含んでいると同時に、作者の言葉からも教皇を「人」として原罪を背負っている存在と見なしているので別にカトリックを冒涜していないと考えられるし、いわゆる聖像破壊ではない。
他方で、嶋田作の方は、富山県による大浦信行『遠近を抱えて』検閲事件を、自ら再現する表現で、寧ろ行政がはじめ燃やしたんでしょ私がその作業をコピーしたのとどっちが焚書かしらと皮肉な観点から、まあTHE菊タブーを表象化している代物なわけだ。で、教祖を踏み絵してまあいわゆる聖像破壊だろう。
具体的にローマ教皇が現実に偶然隕石にあたる場面もあるかもしれないし、それを空想内で再現したのが聖像破壊かといえば、微妙な所というか、ぐちゃぐちゃに聖人を破壊してるならそれはそうかもしれないが、あら9時間もこのままなの痛くてお可哀そうって段階だと、まさに原罪背負ってるだけである。だからカトリックの信仰自体を侮辱しているとはちょっといえないレベルで、パウロ思想に対し「自然の暴力」と「人類の暴力」を重ねて、本当に罪深いのは暴力ふるった人達であってイエスは別に贖罪のつもりではなく、ただ暴徒に殺されたんじゃないの? と疑義させるにせよ、それは原罪の一神学解釈だ。
一方、嶋田の宗教解釈はどうかというと、これ踏み絵であるから、いわゆる日本で明治神道が廃仏毀釈やったのとか、それ以前の信長らによるキリスト教弾圧とかも重ねられうる。日本での信仰は、天皇を教祖とする神道によって蹂躙されてきた。自由なら今度はこっちが踏み絵よ、と不敬罪批判なわけである。つまり嶋田作の方は、具体的に神道へのかなり直接的な冒涜表現は、幾ら津田芸術監督が「でもメタ認知っしょ」ていおうとも、やはりそうと解釈するしかない。逆に聖像破壊(イコノクラスム)の一種として、隠れキリシタンがやらされ遠藤周作『沈黙』の主題な踏み絵再現してると解釈する方が自然である。名古屋的にいうと、名古屋的か関西弁かわからんけど、「天皇踏み絵どや」(どやすとは標準語でもいうけどドヤ顔のドヤるは関西方言かなと思う)というのが、嶋田作の決定的な部分で、まあ菊タブーを問うのだから憲法の建前はどうあれ実際は政教一致のままの政府的には、これは検閲に値するわけだ。
私の拙い世界史の知識によると、間違ってるかもしれないが、ゲルマン傭兵の侵入だったかで帝政ローマは徐々にぶっ壊れていった。つまりドイツとローマ教皇って歴史的経緯から、ある意味で仇敵みたいともいえるし、最初に私が感じたよう聖像破壊もカッセルなら文脈的に可と思う。でもそうじゃない。
だからTHE聖像破壊といってもいいであろう嶋田作を、教条的な日本憲法解釈で擁護する目的で(私の法学知識的にはそれすら、ちょっと教条的とは思えないんだけど。だって表現自由は幾つかの場合に制限されますからね。最高裁判決に待つけど)、ただの神学解釈教皇ユーモア類と混同は、詭弁でおかしい。
全く倫理とか宗教多様性を無視すれば、あるいは宗教批判者とか宗教革命を入れて、聖像破壊も技でありアルスarsでありアートでありクンストKunstであり芸術であり美術であり、言葉はなんでもいいが、表現可でしょう。9.11アート扱いしてる人もいましたし、テロも戦争も或る意味ではアートですからね。
で。嶋田作の論争って、政府くんだりが私の芸術を検閲してんじゃねーよ、っていう聖像破壊の自由の点と(例えば日蓮だって明治天皇だって、他教排斥の聖像破壊者みたいなもんでしょう)、それを公費で展示させるのはどうなの、他の人の信仰を侵害ではっていう公共性の交差が、摩擦してるわけである。
実際、神道信者からすると、自分が払った公税で、自分の信仰を冒涜されたら(メタ認知の言い訳抜きに、そうと解釈する方が自然ですね教祖踏み絵は)、これふざけんなやとブチギレも想定内なわけで、行政の長による他教ヘイトの許可は、流石におかしいでしょって炎上したと。真っ当な政治論議であろう。
1.表現自由に特定の宗教ヘイトは入るの?(宗教ヘイトネタ)この3要素が嶋田作が津田キュレーションであてがわれた配役である。カテラン作とは大分違う。
2.その宗教ヘイト対象が神道教祖だったら?(不敬罪復活ネタ)
3.政教分離の建前のはずがやっぱ政教一致じゃねえか?(政教不分離ネタ)
カテラン作は、自分が1週間たってさっきみた感じ
1.イエスの贖罪はパウロがネタ化した冤罪の言い訳なだけじゃない?(贖罪見直しネタ)等と思う。
2.聖人すら自然の脅威は避けられない(自然vs理性ネタ)
3.教皇が原罪背負って苦しんでるけどイエスの妄想みたいだし可哀想(キリスト教ネタ)
そういうわけで、その女(もう絡んでこないでね荒らしだし)がいう、カテラン作はローマ教皇ぶっ倒してんだから(隕石で倒されているんだが)、お前らJPも象徴なんざ税で踏み絵OKだろ憲法21条2項が1条に優越は当然それ以外は異端俄憲法論みたいな教条解釈派は、聖像破壊度を詳しく見てない雑な論者だ。
勿論その女を除けば、大概のやつは聖像破壊度を全か無かでみてなくて、流石にこれはとか汚損度の質でみてるとも思う。でその教条解釈派も、不敬罪ネタ・政教不分離ネタで神道ヘイトさせろといっているのだから(東大・芸大閥、あと美術・小説業界東京人のかなりの数がね)、まあ菊タブーディスだよね。僕が一番うんざりしたのは、菊タブーを捏造してんのもそもそも皇室と称する殺人鬼の一族はんも、中国だか宮崎だか奈良だか京都だかからやってきている東京人なわけで、東京人が愛知を操り人形状態に憎悪合戦やっている。津田某の元お師匠が茨城擁護で論陣はりはじめたり、或る意味対東京情報戦と思う。
いわゆるあの口に出しづらいお下品なお名前のアーチスト集団のリーダーの方。前、土浦だったか筑波だったかのナンバーに田舎者が! とディスってたからそれ以来マークしていつか潰すと思ってたのだが、今回、調度表に躍り出てきてくれた。この機会に炎上しまくるのがいいと思う。過去の悪業で。
最終的にいえるのは、僕は今回の大炎上が始まる前、津田さんにもツイッターでいったのだが、かみね公園にパンダ誘致とかいってる新知事は、これどうしたもんかと思ったのだが、結果からみたら凄く良い判断している。芸術祭の特定作家へ偏向した或る種の利権っぷりを見抜いていたという結果になった。僕的には、例えば行政が芸術を支援する場合、これはトップなり文化行政長が造詣のある人物で、ガウディなりピアノとロジャースなりに集中投資したみたく、茨城なら妹島さんが出身なんだから全部セジマ建築にする勢いで狩野派的に専属化するしかないと思っているので(要するに食えないアーティスト全部養えない以上どうせ不公平なんだから、それなら配分的正義として最も優れた芸術家を専属化し、その工房の元に弟子達をまとめるみたいな形、いわゆる狩野派とかヴェロッキオ工房形式が、過去知られてる中で最もましなわけでしょう)、中途半端な人買い芸術祭は反対だ。
人買い芸術祭は別の言い方をすると、津田さんはこの批評的観点にブチギレてたけども、各作家は客寄せパンダとして技を安売りさせられてしまう。売名にしか使えなくて芸術祭渡り歩いても食えないレベルの額しか降ってこない。大量に人を雇うと個々人へ薄い手当で、逆に作家もどき量産し餓死予備軍作る。それなら手厚い看護されるパンダのが、まあ確かに行政依存極貧作家囲うより、リアル経済判断としてはいいのかなといえなくもない(で、おちこぼれた食えない自称芸術家らは、他の貧民らと一緒にいわゆる社会保障を受ける権利は当然もっていると思う。現行政は堕落してるからそう判断してないと思いますが、事実として)。で、この当初サイコパシー入ってる様にみえた大井川知事の判断みて、黒瀬陽平氏は「そんな自治体で芸術祭やらなくていいかな」とか上から目線でディスってたが結果は?
愛知県の実例みる感じ、ゲンロン派閥は半端ないヘイト扇動をしたといっていいであろう。いくらTHE左派知識人カルテルが今後相当カバーしても、一般ツイッター意識高い系界隈でかなり厳しい状況にある。福一観光地化計画を開沼氏(同級生)にディスられて以来の、緩い観光客他人事イデオロギーの失敗でないか?
なぜ上述の三点、すなわち
1.宗教ヘイトネタ
2.不敬罪復活ネタ
3.政教不分離ネタ
という割と左派知識人からすると常道のネタが、あれほど挑発的で品性下劣なスキャンダリズムに転化してしまったかなら、いや転化というか元から確信犯で計画されていたが、通称くねくね動画の暴露がでかかった。
天皇ネタぶっこむなら死を覚悟せい、と226青年将校か『桜田義挙録』の烈士みたいなガチ尊王論を或る銀座の画廊主様が唱えだすくらい、超絶侍挑発中の美術手帖ウェブ版副編集長とかもディスり返すとか、東京圏あたふた加減は村上春樹が大磯町で(なぜか)ペリエ開けてやれやれと言い出さんとしかねない。
だから芸術祭は一般にろくなもんじゃない。そしてなんちゃらナーレをイタリアーノだかフィレンツエーノだかツエーゲン金沢ーノの猿真似(正に)しつつ、観光誘客で地域おこしだぜという発想自体、大井川オタ媚びパンダだいすき知事より劣っているらしいのだ。それは経済的にだけじゃなく、芸術的にさえも。勿論この最後のフレーズは、デュシャンの某作品、敢えて引用すれば『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称大ガラス)』世紀の駄作にも劣る駄作、ともいえない東大だかになぜかレプリカがあるとされる、さえも、ハイカルチャー的彷彿とさせるシミュレーションで終わりたい衒学さえもだ。