2019年9月4日

日本の現教育体制が学歴差別の原因ならその悪意を無視して自ら真理を学び教える必要がある

(「日本では学校の先生ですら勉強の意味をわかっておらず、そもそも今の学校自体競争主義、暗記教育で学問に興味もたせようとしていない。その様な教育体制が社畜育成のため作られたのなら納得いくが」とする、あるツイッターアカウントへ)

日本で一般的な小中教員志願者は、少々は勉強でき子供好きか、学校にいい思い出があるか、安定志向かで、(ウィトゲンシュタインやカント、漱石みたく繋ぎでやってた人を例外として)研究者的資質の持ち主はそこまで比率として多くないだろうから、知的好奇心を呼び覚ます役割を兼ねづらいでしょうね。
 北欧は教員が修士以上必須だったかで、実際、或るノルウェーの友人と私が会話した限りで、個性の尊重、いじめへの対応、学習内容、育まれた自主的で批判的な思考の質、良識まで含め、日本よりずっと彼らの受けている学校教育の質の方が高い風に感じたので、日本の教員は相対的に質が低いのでしょう。
 ま、そういう認識から私はブログとかでずっと前から、私の自治体の教員も修士以上を必須にし、ポスドクで余ってる博士を優先採用すべきと書いてたが、まだその通りにならない。

 あなたがいうとおり、教員に限らず社畜作りが教育の基本目的だと日本人一般は暗に思ってるだろうから、革命家志願のユタボンいじめがでてくるんですよ。

 池田潔『自由と規律』(岩波新書23p)に次の記述がある。
「(イギリスでは)実社会の側でもあらゆる職業部門に必ずしも高等教育修得者を求める風習はなく、~プロフェッションを除いては大学高専等の卒業証書は就職の必須条件とされていない。~要するに、大学とか、高等専門学校とかは、高度の学問を修める人間のための施設であって、たとい一家の経済が許すとしてもこれを学ぶ素質や意欲を持たないものが志ところではないという、平明な常識なのである。学校とは学問をする人間が行くところ、然らざる人間は行かない――はっきりしているではないか。学問を志す学生が『本日休講』の掲示に手を拍って喜ぶあの心理状態は、到底、彼等の解し得ないところなのである。」
日本に今の義務教育制度の原型が導入されたのは明治時代で、ドイツ式を模範にした伊藤博文の影響が大きかったが、戦後も旧帝大を頂点とした国民皆兵的な構造が社畜作りに転用され残って、偏差値順位制があるんでしょうね。そこではイギリスでの教育の様な学問を志す純粋な探究心はなおざりにされる。
 私が読んだ限り、竹内洋『教養主義の没落』にある程度詳しく書いてあるが、旧制高校にあった人格陶冶を目的とする教養主義の風紀は、次第に産業界の要請に圧され下火になったという。そして今みたく偏差値順の学卒を就職手形にする、即物的な学歴俗物の商売根性に完全に染まったんでしょうよ。

 以前、私が或る関西地方の大学生と会話した限り、その人もひたすら学歴論をいうのだけど、肝心の学問の中身には何も興味をもってないという状態で、その人の最大の関心事は、自分が差別する側に回って差別されないよう生きながらえ、己が利益を得ようという利己心なんですよ。学問の部外者でしかない。
 文科省が2020年以後どう改革するか知らないが、万一、私が挙げたその人みたいな学歴俗物根性が今の学生一般に蔓延してるとしたら、日本人一般の学力の質が低落していってるのは確かなんでしょうね(ろくに学ばず名門大に入学し、楽な授業で単位を取って卒業できた方が経済効率的なんですから)。

(「一般日本人は、学歴=賢さ、と考え、大体、偏差値が高い順に有能と考えているだろう」とする前述と同アカウントのツイートへ)

 根拠が明示されてないのでおそらくはあなたの推測なのでしょうけど、もしそうだとすれば、私はそれを今初めて知りました。昨日も書きましたが、私は世間的に一流といわれてる大学の卒業者なり学位取得者で、色んな面で本当にどうしようもないくらい愚かな人間を複数知ってるので事実に反しますね。
 色々あなたの描写を読んで思うのは、日本社会の学歴差別に酷く傷つけられ虐げられているのだが、自分の知力でそれをのりこえたり批判できない(恐らく一部の)若い人達が、身分制は仕方ないと諦めまじりに嘆く感じに近いなということです。その差別を無視するか、差別主義者を避けて暮らすしかない。その差別に参加し、自分が有利な側に入ればうまくいくだろうと考え幾らピラミッドを上まで上り詰めても、結局は上には上がいて身分制で虐げられるわけで、子供も同じ輪廻を繰り返すことになるので、最初からそのピラミッドを離れて、自分なりの学業を志すのが正しいでしょう。
 できれば、その自分の学業では、他人を知識の有無とか受験技術のレベルとかで差別せず、学問が本来そうある様、学ぶ意欲のある人々に真理探求の意味を教え諭すべきでしょう。既存の大学なりなんらかの学校を、学業の手段に使うとしてもです。