2019年9月4日

引用回数主義批判

引用回数主義の根本的限界の一つは、結節点になる論文内容に高評価が与えられる一方で、革新的な隙間(どの革新もはじめは隙間だろう)は相対的に過小評価されてしまう点だ。つまりこの考え方で論文の質を評価していると、全体として俗受け、研究者受けを狙う様になり内容の多様化が抑制される。
 又この考え方は、論文内容(paper、essay、thesis、treaties等含め広義で随筆)の質を、特に査読つき学会誌による研究者らの同業組合的な毛づくろい評価に矮小化させてしまう可能性がある。本や網記(ブログ)の様、研究にとって重要な内容が含まれる文も容れ、引用回数はその質の精確な印になりえない。
 ある意味、引用回数主義は科学主義、科学教の一部だ。つまり潮流履修性の強要。逆に一部の人、地域、文化にこそ重要な内容だったり、少数の人々にしか理解されていない内容でも、その意義が薄れるものでありえないのは、どの知識もいずれどこで重要になるか潜在的にわからないことからも明らかである。