2019年8月4日

日本政府は未だに政教分離できていない

御影損壊の行政展示が面白いのは、当時昭和帝は全権をもつ神の子孫、つまり現人神と臣民一般に思われていたのだから、彼の為に戦死した人らは聖戦の殉教者だったことだ。愛知県が聖像破壊の『焼かれるべき絵』を3日展示したのは、日帝の聖戦史観を歴史的反省として間接的に否定可能にする意味がある。
 皇室からみた神道の歴史観と、愛知県が間接的に示した歴史観は、対極にある。皇室はいまだに国税で新嘗祭、伊勢神宮参拝など自己神格化の儀式を続けているわけで、自分が神の子孫という神道上の狭義は否定していない。人間宣言は昭和帝が米軍に請われて行った敗戦の弁で、実態はまだ神道教祖なのだ。
 日本政府は宮内庁はじめ、現時点で天皇が神の子孫とされていた祭政政治(神聖政治)の政教一致性を全否定していない。天皇個人の信仰に国費を使っているという政教(政治・宗教)の未分離は、文仁親王が指摘したとおり、見逃されている。
 しかし愛知県の展示は聖像破壊で天皇の聖性を間接否定した。
 戦後憲法の「国民主権と天皇制(名目君主制)」「信仰自由と神道教祖が象徴」の矛盾という2点で、『焼かれるべき絵』を愛知県が3日展示したのは、戦後思想史に一つの目印をつけたと思う。それが行政側から自主規制されてしまったのも、天皇の聖性否定や政教分離を完全にできない政府内の禁忌を示す。