従軍慰安婦がどの様な立場でどれだけの数、どういう意図で存在したかは実証史学の進展に待つばかりだから、名古屋市長・河村たかし氏のよう断定的な捏造説で論じるのは彼の歴史修正主義の証拠になってしまうだけだろう。そもそも現行法で売春防止法と風営法の矛盾についても曖昧なので性売買の罪が本質だ。
現日本なり愛知にいる性産業従事者には目をつぶり、日帝が多かれ少なかれ関与していたとされる公認の性売買には目くじらを立てる。矛盾しているのではないか。根底にあるのは性売買そのものの罪なのであり、政府が後押ししたかは事の本質ではない。愛知県はこの点をどう考え、慰安婦像を展示したのか。展示内容には関与しない、という名目で、(日帝による)性売買罪の望まぬ犠牲者と通例解釈される少女像を3日展示したのは、現行法下での性売買罪をも見逃している愛知県警への皮肉なのか? 愛知県政、或いは日本政府自身の続く性売買罪の現実に目をつぶる偏向した自画像であり、自虐的な展示なのか?
イエスは「自分で罪を犯したことがない者だけがこの罪深い女に石つぶてを投げなさい」といった。要するに愛知県庁が慰安婦像の展示で、日本政府・日帝、日本人全般に突きつけたのはこの問題意識だったと解されるのではないか?
「お前たちは性売買罪を現にしているではないか、反省しているのか?」
慰安婦像に発狂する日本人の大部分は、外国人もだが、現にある性売買罪を放置しながら、戦時に日帝が望まぬ者に詐欺なり強要したとする見解だけを頼りに、慰安婦像設置・撤去論者を「恥を知れ」と罵倒する。真の恥知らずは、自分も多少あれ加担している、性売買罪を含む法秩序の容認なのではないか。
「成人が望んで自ら行う性売買」は倫理的な罪がないのか? 現行法ではグレーにされているが、現日本政府がこれをはっきりさせず放置している時点で、日帝が管理売春をしていたかに関わらず、根底にある性道徳は諸々の偽善者に踏みにじられていくだけではないのか。望む性売買を認めるべきなのか。例えばもののあわれ論でいうと、いかなる性的不埒も、一切の性道徳も、ひたすら性欲の前では無視されねばならない。これが本居宣長が紫式部の思想を解釈した性道徳観であり、国学あるいは国文学の中で正当化された一つの価値観だ。
一方、通俗的キリスト教・イスラム教では性売買は罪である。
厳密にいえばイエスは通例売春を行っていたと解されるマグダラのマリアを近づけていたり、罪人を許す傾向があった。だからキリスト教原理主義からいえば、性売買そのものを法的に罰するのではなく、単に「他人の妻を色目でみるのは姦淫に等しい」と良心の自主規制にイエスの性道徳観はあったといえる。
では現行法が売春防止法で性売買を禁じているのは何に基づく倫理観なのか。赤線地帯から続く、既に存在している性売買地区を風営法で囲い込み、具体的にその実態を取り締まらないのでは、拡散防止ではあるにせよ実質、許可しているのと変わらないのではないか。日帝の管理売春と日本政府の放置の何が違うのか。
日帝の管理売春(実態は歴史学者らが検証中)と、日本政府の風俗営業の放置で、何が違うのか。本質的には性売買を倫理的・法的に認めるかの議論でしかないのに、なぜ過去のそれだけは罪としているのか。現時点でも望まず、貧しさや女衒による詐欺で売春させられている女など無数にいるのではないか。
私個人は、予てから性売買は全面的に罪だとみなす厳格論者だった。それは私が子供の頃から周囲にその種の商売をみたことがなく、成長後に都心でその種の人々をみて文化衝撃を受け、彼らが悪徳に満ちた堕落した人でなければ、人身売買の犠牲者だと考えていたからだ。だが或るSNSでその種の商売に身を投じているいわゆる若い娼婦と、ネット上で会話する機会があった。彼女は「自分はデブで醜くもてないので性欲を満たす手段として身売りを択んだ」といっていた。それで私は考え直し、その種の人の個人的な事情まで一律に法規制するのが本当に正義なのか疑義し始めた。
その後、私は慎重に性売買を現に行っている人々の言動を観察し、或いはSNS上に若い女などでポルノファンなどを見つけ、彼らがどういう風に性売買を捉えているか分析した。そして私は彼らがもののあわれ論と同じで、そもそも性道徳を殆どもちあわせていないのだとわかった。動物とほぼ同じ状態なのだ。
私はそれまで自分が、貧しくなくとも詐欺されなくとも、望んで性売買をしている人々(少なくとも成人後の、特に女性)がいる、それどころか性道徳をほぼもっていない人々がいると認知していなかったと気づいた。私は彼らがもし性道徳面で自滅的でも、彼らをゆるす方が高貴な態度ではないかと考えた。
福沢諭吉は「もし下賎なことを知っていても自分がそれをしないのを高貴さという」といった意味のことを述べていた。私は彼のこの種の海千山千の人生観には反対だ。貴賎いずれも無限な以上、孔子が「君子は上達し、小人は下達す」といった人生観の方が、より現実に近いと思うからだ。
結局、性売買の罪をどう考えるかだが、私としては望んでそれを行っている成人の扱いが焦点になると思う。彼らは性売買の自由がある、と主張するだろう。現行法では、いわゆる被害者のいない犯罪になる。
一方現行法では詐欺で、又は貧困でやむなく行っている人々と望む売春が曖昧にされている。
1.望んで行う売春
2.望まず(又はやむなく)行う売春
の2つを先ず法的に定義し、2については風営法で許可せず、警察はきちんと取り締まるべきだと私は信じる。日帝の慰安婦も、まさにこの点で管理売春側の不備として、道義的に非難されているのだ。問題は1の方だ。
(2の売春を「不本意の売春」と定義すると、先ず女衒による詐欺は全面的に違法化するべきで、被害者保護の法文を売春防止法に追加しなければならない。貧困で止むなく行う場合、行政が社会保障を与えなかった不備のせいなので、不本意売春の禁止項に行政の生活保護義務などを追記すべきだ。また現行の売春防止法は、買春側の罰則が書かれていない。これは不公平なので、買春側にもなんらかの刑罰が与えられる様でなければならない筈だ)
1を「本意の売春」と定義すると、こちらはいわゆる思想・信教・良心の自由に該当するので、買春側も同意していて被害者がいない場合、行政がどれだけとりしまるべきなのか、全く放置すべきなのかが問われる。
一般論として、現地の気風次第で各警察が曖昧なまま放置・取り締まるグレー状態なわけだ。前述したよう私は現実に望んで売春する成人女性がいる点から、これまでの法解釈でいう彼らが世間に与える性風紀の堕落といった悪影響を含め、おそらく法的に罰せるものではないのではないかと考える。つまりミルがいう「悪例が他人の自由に与える影響度」に応じてしか或る人の自由は法規制できない。つまり、本意の売春者は、世間に与える公害度に応じてしか法規制できない。例えば公然猥褻・猥褻物頒布・陳列罪などの外形に表れた要素とか、さもなければ相手方が未成年だったとき保護者による訴え(いわゆる淫行条例、児童福祉法など)とか、配偶者からの心的苦痛や離婚事由による民事訴訟などだ。
もう少し踏み込むと、彼ら本意の売春者は、世人の一部では性道徳への反対者なり解放者とみなされている節がある。すなわち思想面で、なんらかの性道徳に脱構築的な意味で彼らの存在を肯定的に捉える人もいるというわけだ。このため、本意の売春者を罪人視する曖昧な法制度は現実と齟齬があるわけだ。
こうして、従軍慰安婦問題が含んでいるのは不本意の管理売春と、本意の売春の混同といえて、しかもそれは現行法下でもやはり残っている曖昧さなので、両者の論理を自分の理論的視座に都合がよくすりかえながら相手側を「恥知らず」と罵倒しあっているのが、この問題をとりまく現況なのである。
日本政府が管理売春を認めるべきかだが、上記の理由に基づくと「本意の売春」が不本意のそれから、売春者・買春者・仲介者以外の第三者による状況判断として詐欺を含まずきちんと峻別されていた場合、衛生面で国によっては正当化されていることがある(オランダ等)。だが政府が性売買の衛生管理を目的に間接的にそれを公認するのは倫理的肯定と受け取られかねないし、業者との癒着によって再び日帝の愚(つまり政府による売春幇助)を犯す可能性もあるので、私は管理売春は実質的に不可能ではないかと思う。いいかえれば性病防止などは管理売春とは別に考えるべきだ。
これも福沢が「性病は寧ろ品行の悪い人間を自滅させるものなので放置した方が公益度が高い」といった趣旨のことを書いていたが、これが余りに極論なのは、性売買していない第三者がそれをしている人から性病感染しうることから明らかだといえる。彼に多い西洋の封建道徳妄信からきた勘違いにすぎない。
こうして単なる公衆衛生の一般論として、政府が保健面で性病感染の防止をはかるのは当然あっていいことで、それはなんらかの啓蒙かもしれないし、現に感染があった施設や業者への何らかの罰則なり改善命令措置かもしれない。その種の項目を感染症予防法に入れればよく、管理売春まで行う必要はない。