創造的なふりをしている人や創造性を高めようと思っている人は、最初から創造的でしかありえない人、つまり天才がどう頑張っても世間に合わない凄まじい苦労を知らないのだ。だから凡人は凡人らしく生きるべきだが(というより天才ごっこをどれだけやっても結局は偽者のままで、最期まで凡人としてしか生きれない)、天才は基本、狂人と間違われない程度にはなんとか凡人に擬態するしかない。さもなくば世間は天才を狂人と混同し、差別や排除、時には迫害したがるものだからだ。そしてこの点が、天才が長寿になる為の最大の骨だ。古人はしばしばこれを人格の陶冶という別文脈でだが、中道(ゴータマ)とか中庸(アリストテレス、孔子)と呼んでいた。
嚢中の錐の様、どれほど凡人のふりをしていても天才はやはり或る能力の本質に於いて傑出してしまう。しかし天才自身は素の自由闊達ぶりで最も自己実現を図りうる。だから天才の多大でしかも避けがたい苦痛の全ては、寧ろ凡人への擬態の必要さからくる。
社会が天才から受ける便益を最大化したければ、天才へ完全に自由な環境を与えるべきだ。が同時代の世間は天才自体新しい才能で評価関数が未知であるため、天才ごっこをしている偽者(奇抜ぶった凡才や、ただの秀才)と本物を見分けられないどころか、既に模倣先があり既存の評価関数(つまり学の体系)で点打てる偽者の方を選好優遇してしまいがちである。したがって天才はこれを見越し、世間が凡才や秀才を天才と誤認し選びがちな以上、最も典型的には、既存の評価体系を利用してその内部に紛れ込むか(擬態戦略。マネら)、全く無視して別の環境に自由度を求めたりできる(青海戦略。セザンヌら)。両者を適宜くみあわせることもできるし(表裏戦略。ゴヤら)、これ以外の中間的な戦略もあり、たとえば既存の評価関数の文脈上に創造性を織り込んだり(革新戦略。ピカソら)、別分野の才に紛したり(演技戦略。ウォーホルら)もできるだろう。これらは既に過去みられた凡人擬態法なので、未知の戦略は無数にある。
いずれにしても天才なるものが排他的凡愚の蠱惑する俗世でなんとか生き延びるには、当該世間の評価関数を把握し、意識・無意識に対策を打たねばならないだろう。それなしに天才の本性を発揮すれば、現状維持バイアスと同調圧力に凝り固まった世人は彼らの傑出ぶりをはじめ無視し、やがてねたみ、次第に驚懼し、遂には排除を試み、最悪のとき磔にすらするのだから(イエスの例)。したがって天才がアウトサイダー(部外者)な時、しばしば当時の精神疾患に類するなんらかの差別的分類とみなされているだろうし、いわゆる知的障害とされるほど彼らのメタ認知が脆弱なら、周囲のなんらかの援助者が彼らを特定の戦略で世間と折り合わせるしかないだろう(後援戦略。山下清ら)。