2019年7月14日

日本型資本主義の革新

富国強兵イデオロギーは、皇室と薩長藩閥のマキャベリズム、帝国主義、松陰侵略主義の下にあった為、岸・安倍ら戦後長州閥が自民党員として米国追従イデオロギーで上書きする様になってから迷走し、東亜蔑視なる福沢諭吉的脱亜論だけが弱者虐めと愛国差別の小中華思想として強調される様になった。いいかえれば明治以来の長州閥政治が保守と称し強調しているのは自己愛の強調であり、虚栄心でしかない。いわゆる世界中を富ませたいとか、人類全体に貢献したい、あるいは国内外の弱者を助けたいといった善意はひとかけらもない。だから戦後右翼は拝金主義に耽ったり田舎差別を繰り返すのだ。
 東京都で上場大企業の正社員になり非正規雇用者とか貧困一般を搾取しながら蔑視したり、彼らを収奪する公務員になって一生給与を保障されることが戦後右翼の保守したがっている人生観であり、その高度成長期の或る人生の型を永遠に繰り返そうというのである。そして皇室と小中華思想で自慢に終始する。

 資本主義は大航海時代の高リスク事業への株式による出資方式を、産業革命の影響下にあったスコットランドでアダムスミス『国富論』が補完して成立したとすると、この考えの道徳的な使い道は指定されていない。つまりなんらかの人倫目的なしに資本主義は暴走し得る。その最中が現状の日本といっていい。経済グローバリズムが人類の福利一般をます方へ使われれば、資本主義は善なる思想になりうる。つまり明治以来の富国強兵イデオロギーに欠けているのは、単なる中国や西洋諸国の猿まねだった天皇帝国主義に還元されない全地球的な善意、特に大局的な公共の善なのだ。
 神道は奈良時代に捏造された邪教、すなわち天皇家(皇室)の世襲独裁を、神話による洗脳で愚民に狂信させる目的の民族宗教だった。この思想にかぶれている限りその日本国民が全人類への貢献という本来の正義、共和的善意に目覚める日は永遠に来ないだろう。天皇は悪意の元に富を収奪してしまうからだ。
 日本型資本主義のもう一つの欠点は、自主的で無償の(つまりふるさと納税の様な見返りを一切求めない)寄付文化が極めて弱いという、梅岩式町人倫理を脱却しきれていない点だ。いわゆる商人の蓄財と遊郭での享楽的散財、町人風の現世利益観が戦後成金、特にヒルズ・ネオヒルズ族の人生観でもあった。日本政府が途上国へ開発援助を行う際も紐つき援助をしていた様、明治期の廃仏毀釈から日帝が崩壊するまで神道が仏教を弾圧して以来、日本人全般は無意識に神道以外の宗教を異形視する教義を、政府による義務教育や宮内記者会発のテレビ政治などで教え込まれるになった。神道に寄付の教えはないのだ。逆に神道が政府や政府広報としての宮内記者会を頂点とする記者クラブを通じた主要マスメディアをのっとり、国民全般に刷り込んでいるのは天皇や皇族への絶対服従と、彼らへの貢納をいいかえた納税の義務である。ここでも日本型資本主義に暗い影をおとしているのが皇室という祭祀長の旧体制なわけだ。
 資本主義を最も善用するには、なんらかの資本を全人類の中で最も恵まれない人の利益の最大化に使うべきとなる。ロールズの正義の第二原理を、功利主義と一致させた点だ。そしてこの枠組みを実践するには単に蓄財し皇室に貢ぐのを繰り返し中華思想を強化するのでは全然不十分である。
1.皇室解体か民間人化で全人類への無差別な共和的正義を国民一般に浸透させる(単に国内における東京・京都中華思想な華夷秩序や、薩長藩閥、大都市住民の自文化中心主義的な傲慢だけでなく、国際的な脱亜入欧イデオロギーも全く捨て去る必要がある)
2.資本主義自体に人倫として救貧観を導入する
3.無償の寄付を含めた資本主義しか正しい商習慣とみなさない
最低でもこれらの思想上の革新が行われてはじめて、我々の商業が必ずしも邪悪でなくなる可能性が出てくる。現時点では商活動をすれば必ず天皇による収奪が行われる以上、差別的な身分制や東京中華思想を強化してしまい、良心を害する。

 日本人一般の無意識に踏襲する規範となっているのが新渡戸武士道にまとめられた諸徳として、その中で賎貨思想が「成金」への軽蔑の念を皇室に象徴される伝統的な貴族階級との対比として延長させているのだとすれば、日本型資本主義はこの点で良識や人生観の二重拘束に陥っているといってもいいだろう。つまり成金を下品と見下しながら、同時に国民の9割近くが商人階級になっているという賎貨思想と貴族主義の矛盾が、日本人一般が主権者でありながら皇室を崇拝なり維持する矛盾と二重写しになっている。この矛盾を止揚するには、資本主義的商行為が本来的に善意かつ善い結果のものでなければならない。
 皇室を制度上廃止し、全国民が等しい権利をもつ存在となったうえで、皇室への貢納を納税とダブルスピークすることなく、単なる全人類の救貧のため商行為し、同時に進んで無償の寄付をする習慣を身につける必要がある。これは投資なる収益目的の高リスク行為を国民に勧めるのでは全然果たせない仕事だ。
 公僕が全体の奉仕者として清貧に甘んじるのが公務員のかつての侍としての威厳の維持になるわけだが、現時点の中央官僚、国家公務員、地方公務員らは皇室ともども、武士道以前の受領化にまで退行し、皇族や長州閥を忖度する金権政治に耽っているといっていいだろう。国民が進んで納税するには彼らの意識が正されなければならない。つまり公務員は最薄給で、単なる救貧のための清貧な奉仕者であり、自己犠牲の聖職に近いものとして貴族の義務で自らを律する必要がある。この前提として皇室が国政から除去され、公務員は純粋に国民の為の奉仕者になる必要がある。もし税金が恵まれない人の救済に使われることが明らかなのに、自らの彼らに比べより多く占めた富を自己責任論でけちる(出し惜しみ)するのは、単なる悪意というべきだろう。これは配分的正義と調整的正義の混同から来る一般的悪徳にすぎない。商行為内の配分時点で、業績には差がついているのだから。
 いいかえれば、進んで納税したがらない人が単なる悪人でない場合、皇室はじめ公務員全般の救貧役としての資質に疑う余地があるが故にけちなのだ。まず贅沢三昧を人種・身分差別の理由にしていた皇族が国政から排除された時点で、公務員全員の給与は全国民で最も貧しい人と同水準にすべきである。

 一国内で救貧が十分に行われたら、次は他国、もしくは国から排除された人々に対しても、我々は同様にふるまわねばならない。こうして日本はあらゆる差別から自由になった模範的な共和国、かつ、奴隷的制度を脱し互いに助け合うよき資本主義の実現している国として新生するだろう。