2019年7月15日

自分に不利な信仰への理解度

人は自分に有利な考え方を無意識に信仰し易い。そしてこの自然な信仰が確証偏見を集める作業で、自信と呼ばれるものにほぼ一致してしまい易い。この意味での道徳律、つまり何々すべき、何々しなければならないといった形の思いは、自己の信仰体系としてできあがるものだ。
 科学的思考癖をもっていると自己批判により、特定の信仰を維持しようとする自らの欺瞞に程あれ気づいてしまう。そしてこれに気づかない他人も一般に愚かにみえてしまう。尤もこれが自らの信仰に照らした偏見でしかないのは、信仰が一般に各自にとっての有利さでしかないとすれば明らかなのだが。
 我々が何々主義という形で己の信仰を体系化していると、この宗教全体に役立つものを余り詳しい検証なしに正しいとみなし、それ以外をより疑い深くみる様になる。そして動物が本能としてもっている利己性の延長上に、この種の社会思想の一切はあるのだ。人は自らを構成する諸要素に最もふさわしい信仰を生涯を通じ築きあげる。カントのいう道徳神学が信仰の体系であると自ら吐露している通り、個々人の信仰間に普遍的な共通性(共通感覚)が前提されないかぎり、唯一の道徳は得られない筈だ。
 自分に不利な信仰に対しては専ら寛大に見て、それによって利益が得られるだろう人達の立場をできうるかぎり思いやるべきだろう。
 疑義を全信仰に満遍なく行わなければならない。そして自らの信仰に対してこそ、余計この検査を徹底して厳格に行わねばならないだろう。普遍的信仰、つまり全人類、または全生物に共通の道徳律がみつかるとしたら、それはとりもなおさず全主体に有利な信仰でもあるだろう。一体その様な項目があるとしても、極めて僅少な部分かもしれない。そしてそれ以前にこの部分は単なる当為かもしれないが。