労働者一般は彼らに固有の思考様式を進んで身につけることで、労働者なるものに自らを同化しようとする。これは彼らが無知か未知だからではなく、単に多少あれそうなる願望があるからだ。職業分化や分業を職業選択の自由の中で追求しているのが彼らであり、労働者一般を資本主義体制の犠牲者とみなすマルクス史観は、この点で決して有効ではない。
例えば会社員やビジネスマン、もしくは広義で公務員といった言葉で、労働者は自らの地位を美化する諸々の情報を掻き集める。この確証偏見は彼らの生涯にわたるので、マルクス主義自体に一度も触れないまま彼らは生き、死んで行くが、その一生におおよそ満足しているのである。
マルクス史観は労働者が無知か未知で、資本主義のしくみを体系的に理解すれば自らの置かれた搾取される地位を脱却しようと試みるだろうと前提していた。だが労働志望者一般は、マルクス主義や左派全般に天皇と政府、GHQにより貼られたレッテルを、その後の自由に学べる世の中でも寧ろさらに強く信じる様になっていった。もし資本主義を科学的に把握できても、新自由主義や自由至上主義といった自己責任論を含む考え方に染まり、彼らはもっと強度の搾取を痛快かつ合理的に感じるかもしれない。