2019年7月9日

権徳一致論

世界宗教は人を利他的にしつけようとした。その結果、無能で使い道のない人や、元々利己性が激しい卑しい人を多少あれ向社会的にし、また少なくとも他害性を削ごうとした。こうして信者の集まりの内部では共通の規範にのっとって擬似的な利他集団をつくりあげた。がそれが教祖や聖典の命令へ従順であることを目的とした集団な限り、教祖や聖典自体の過ちは修正されない。いいかえればこの信徒集団は結束的または君主制的であり、程度あれ主体性を放棄している。ある宗教団体が自己の生きようとする意志に反し集団自殺を図ることがあるのはこの為である。
 君主制、つまり単独支配は結束性の点で宗教団体と相似の構造をもっている。名目君主による擬制の場合はなおさら、教祖の絶対性が無答責により保存されてしまう。政教分離が十分図られていない体制と、政教分離が制度化されている体制の両方で、この擬制下の結束性は程度の違いでしかない。
 一方、少数支配と多数支配いずれの場合でも、教祖に代わるのが少数派か多数世論になるだけで、実際は結束性を全くもたない体制は実在し得ない。例えば不寛容な大衆政治より良識的な君主政治のもとにいる個人の方が自由度が高いだろうし、結束主義的な党派の支配下にいる民衆よりよく行われている単独支配や多数支配にも同じことがいえる。こうして多数政治が唯一の正しい体制だとする考え方は、単なる政治体制への誤解である。宗教と、政治・経済についての主義思想(いわゆるIdeologie)の間には単なる内容の違いしかなく、どちらもある結束性を他者にもたらす点で同じ社会規範という意図をもつものでしかない。最も寛容な思想でもやはりその寛容さを他人にも制度的に前提化する点で、結束的足らざるを得ない。即ち政教一致・分離とは本質的に未成立な課題なのだ。この概念はキリスト教勢力と一体化していた王権または教皇権を封建領主や民衆のもとに取り返すとき使われた革新的合言葉だった。
 例えば民主主義イデオロギーも神道も、あるいはイスラム原理主義やイスラム世俗主義、シオニズム、資本主義、共産主義、自由主義、社民主義も、果ては自由至上主義や無政府主義も、単に或る結束性を他人に及ぼそうとする企てでしかない。これらはどれも社会規範について各自が信じる理想の思い込みである。勿論、ただの相対観でどの考え方も各々の主観による等価的なものだ、と単純化できず、ある結束性はより自他に有害で、別の結束性はより普く功利的という風に社会規範間にも優劣がある。しかし生産様式や交易の展開の中でどの考え方がより集団単位で合理的となるかには一定以上の変化がある為、通時かつ普遍な正義が特定の思想形態として定義できると私には思えない。もしそれができても、極めて狭義で抽象性の高い形、例えば利他性一般といったよう制度を含まない状態でしか語り得ないだろう。こうして、人が政治言行をとる際、なんらかの主義やそれに基づく主張をしているなら、それはどれもその人の信仰でしかないのである。指導者の実態は権力闘争の賜物であり、ある集団の中でよりましな利他性をその人がもっている際にしか彼らの権威は公益的ではない。アリストテレスとプラトン、孔子や孟子らの理想としていた政治は、根本的に公徳と権力の絶えざる再一致を求めるものだった。そしてこの原則は単独、少数、多数のいずれの支配でも同じだったのだ。権力関係が変わったり、権力者が入れ替わったり、政権交代が起きたり、体制変革、維新、革命が成るのは政局の推移によるが、実質では公徳と権力のずれを誰かの信仰が再修正しようとする試みからきている。イエスやソクラテスが死刑にされたのは、彼らの激しい宗教革新に旧体制の保守派がついていけなかったからだ。もし彼らがただの神秘思想家としてゴータマや老子のよう遁世していれば、現世権力と直接衝突せずに済んだろう。他方ムハンマドは権力闘争に勝ち残ることで彼の信仰を広めるのに成功した。同じことは二千年近く自己神格化の宗教を政治闘争の中で布教してきた天皇にもあたる。ダライ・ラマやローマ教皇も、要するに彼らの宗教上の権威は不可分に信徒による権力闘争の結果である。ユダヤ人とパレスチナ人が聖地を巡って繰り広げる戦は、宗派や政党の争いと同様、単なる部族闘争の延長でしかない。
 ある公徳を広めるには、その持ち主を裏づける権力がなければならない。それとほぼ似たことは既にマキャベリが『君主論』で述べている。彼は権力の裏づけがない公徳は政治闘争の中で叩き潰され、実現されないという。つまりこの意味で未実現の公徳は個人に留まるのであり、我々はその種の人を単なる政治哲学者と呼んでいい。アリストテレスの教育を受けたアレクサンダー大王が、水戸学者として徳川斉昭らの教育を受けた徳川慶喜が、彼らの理想を現実政治に反映しようとしておこなった試みは、政治哲学を実践していく過程である。哲人政治とは結局、ある公徳を信じている人が権力者を兼ね得た時に最も理想的な政が行われるという権徳一致を意味している。しかし吉田松陰の侵略主義を受けた伊藤博文が戊辰戦争から東国、東北や新潟、北海道、琉球、李氏朝鮮へと略奪の手を伸ばし後の日帝崩壊の序章を始め、マルクスの共産革命論を受けたレーニンがソ連の起点となった様、ある信仰の公徳の質が低ければ被害は甚大になる。いわば権徳一致は必ずしも奏功せず、しかも明治から平成までの日本政府がほぼそうしてきたよう当時の権力に都合がいい自文化中心的世界観で異なる理想や価値観をもつ側を貶めもしてきた。現に、慶喜の尊皇禅譲を敗北や敵前逃亡と濡れ衣しつつ朝敵の汚名を着せ続けてきた薩長藩閥は、彼らが国内外に侵略を働いた落ち度についてなんの反省もせず、政権簒奪のため行ったテロリズムや冤罪、虚偽の密勅など悪業の数々も正当化し続けてきている。この種の愚行は彼らの捏造した日帝を合理化するため鬼畜米英と罵っていたのが一転、岸信介と安倍晋三、麻生太郎といった薩長藩閥の末裔が天皇ともども、民衆を犠牲に戦わせた米軍基地の駐留建設を認めるなど、己の権勢欲以外なんの一貫性もない振る舞いでも明らかである。尤も事は日帝や戦後日本政府に限らず米英仏ら諸国の政府権力でも大概同じであり、公徳に欠けた権力は常に有害なばかりか、自己洗脳により己の公害について反省できないものなのだ。これが禅譲はごく希、そして放伐が一般的な理由だろう。賢明な権力者が自ら譲位するのは、その人の信仰が公害になっているのに気づく場合に正しい。これを責任放棄と侮辱するのは、政権交代が無用の争いなく速やかに行われる方が望ましいと知らないだけである。
 実践の能力が必ずしも理論のそれと一致するとは限らない。これが権徳不一致の体制や、そもそも分業の点で政治哲学者と実権の保持者が分かれている場合が生じる原因である。しかしある公徳が公益性の高い新政体を動因するものであれば必然に両者は漸近していかざるを得ないので、こうして政体は変遷し、ある公徳を権力者が採用するか、その公徳をもつ少数政党が再支配するか、多数世論がその公徳を主張し権力に反映させるか何れかになるだろう。この時期の遅速や手続きの難易は、ある集団全体の利口さ次第で異なる。