共感性の高い利他主義者は救世主コンプレックスに基づく啓蒙を諦め、卑しい人、悪徳に満ちた人、悪人の不幸を痛快に感じるよう自己の信念や感覚をきりかえるべきだ。つまり業を業としてみるのだ。それなしに他人の状況がわかるSNSを眺めていれば、余りに劣悪な俗人ばかりで人間が到底愛すべき存在に思えなくなるだろう。
ゴータマは『ダンマパダ』で賢者と愚者を、孔子は『論語』で君子と小人を、ムハンムドは『コーラン』で信者と不信心者を、イエスは『新約聖書』で神の子と裏切り者をそれぞれ見分けていた。こういった過去の聖人らの事跡をみるかぎり、彼らは博愛(アガペー)とは別に、悪徳をもつ人々の末路を見通していた様に思われる。
全人類が等しく幸を得る、という現実は、業を省みればふさわしい結果とはいいがたい。少なくとも自然による因果を超えた人為の範囲で、或る自業自得が善人に幸を、悪人に不幸をもたらすのが必然と呼べる結果だろう。一般に文明とはこの種の業を「天網恢恢疎にして漏らさず」と『老子』にいうよう、厳格化する為の道徳組織である。
因果とは自然の、業とは人為の法則といえる。カントは後者を道徳法則と呼んだ。