2019年7月3日

負担選好による先進国病の克服

Signaling(信号)の目安としての学位は程なく価値を失うだろう。一般にそれが知性の目安でもなければ、往々にして単なる俗物根性の気取りの印に過ぎず、特定の専門知を更に限定化した知識しか保証しないのが事実であれば、知能全体を矮小化した誤解を招く後光効果の偏見をもたらすだけだったからだ。つまりスペンス理論は一般に社会的費用を浪費させるもので、その有効性は専門の一部にしか当てはまらないというのが事実だった。
 逆に私が指摘したhandicap(負担。ある個人が同等以上の成果を挙げるなら低学歴の方が総費用が少ないとする雇用に対する経済学の立場)の方が実用的であれば、学位が低い被雇用者の能力がそれの高い彼らに比べより優っていれば総社会的費用が節減できる。単なる商業の面で必要な商才はこの意味で学業成績とは別の知能である。いいかえれば商才のある個人へは、実務に無関係な無駄の少ない社内教育(又は実践)の方が同等以上の成果にとって効率的である。
 一方、信号は教養という非実用的過剰教育を雇用市場での人事区別に自らを適合させる競争の鼓舞に与える為、社会全体の費用を学術に振り向ける効果を伴う。つまり信号が技革をもたらす前提条件になる可能性があり、信号選好はしばしば革新的企業を興すかもしれない。尤もより詳しくは、類似の教育を受けていない者同士の協業により業務上の盲点を相互参照で無くしたり、偶然の結合を与える多様の統合の方がより創造的な人事環境である。よって信号選好は負担を基礎にした時、最も効果を伴う筈だ。すなわち教条的信号選好の社会的費用は無駄の制度化を伴っているのが事実だから、負担選好は信号によるそれ単独では見落とされ易い雇用市場での先進国病を解消するだろう。具体的には先進国内で途上国以上に安価かつ有能な労働力がみいだされないのは信号選好の過度の全体化によっているし、逆に途上国一般が総じて貿易市場で輸出側として有利であり続けているのは国民全体が一律に信号選好をもっていないお陰である。単なる地方や県、市などの小単位でも、同質のことはあてはまる。経済の総合面からみると或る社会全体の高学歴化は寧ろ少子化や非効率の温存、生産・消費人口そのものの漸減、学歴主義の蔓延による無能な馬乗り俗物の跋扈(いわゆる官僚主義化)などで、一般的な生産性の低下を伴うのである。単なる経済の尺度で価値が測れない教養人を含め、社会常識としての信号選好への偏りは、負担選好そのものへの過度の偏りと同じく文明的合理性をもっていない(信号と負担の両方の立場を同時に持つこと、すなわち専門知に関しては信号を、基礎的には負担を選好する中庸の立場を、私は実力選好と名づけた)。簡単化すれば多様化した個々人の協業、多様の共同が最も望ましい創造的かつ効率的結果をもたらすのであり、この点では信号選好は人口減に伴う教育費用の増大とその固定化に繋がる先進国病の共通原因でもあった。