学問上の真は、普遍的公益を伴うので望むと望まざるとに関わらず公然のものとなり、学者の間で採用されざるを得ない。そしてこの領分こそ学を志した者が共通して進み入らねばならない厳格な司法の場である。
共知を文字面とするconscienceが良識の意なのは、その真理領域ではそもそも偽装や見栄、名誉、俗物根性といった類の世俗的要素が全く関与してこないからだ。だから学位や権威、研究論文の発表数、引用頻度、影響度などを真理の補償と考えている人々は、探求の緒にも立っていない。これらは他人または学界多数派の凡そあてにならない評価を元にしている限り、真理にとって目安にさえならないのだ。
これは私がこの小論のはじめに述べた説と矛盾している様だが、両者の論理を止揚すれば、学問上の真を一度発見すれば、それはより深い知的探検には道具的段階として普く公理と認めざるを得ないから、結果として長期の影響を伴うに過ぎず、現世で高い人気度が見られる程度の内容は必ずしも通時的とはいえない。なぜなら因果関係からいえば逆で、或る潮流内で真理でないがよく引用され、且つより早く否定される仮説があるからだ。粗製乱造した低質な論文の山が学術的になんの意味も持っていないのは、文化人気取りの似非学者らの一般書を見ればすぐ分かる。勿論表面的形式を踏んだに過ぎず、単なる学習歴の証拠情報として独創的重要性をもたない凡庸な学位論文は日々量産されているので、学位自体、ある種の免許交付による教授らの権威づけや教育機関の金儲けでしかない。