2019年7月11日

客体的上位認知について

私は或る投資の才能がある(現時点で誰も信じてくれないかもしれないだろうが)。世間がたかっている大人気のひとやものでも直感で将来おちぶれるかがわかるし、逆に将来必ず大成するだろう人物も対象もわかるからだ。自分で後知恵バイアスか疑っているのだが。もし私に本当に、今の私には投資の才能の様にみえるものがあったなら、将来、世界の投資家列伝に私の名が刻まれることがあるかもしれない。しかしここで私がいいたいのは、この或る直感性からみると、世間がまるで他人に見えて仕方がないという事実の方だ。
 私は全く別個の自我で、世間は完全に外部の存在で、その間には基本的になんの共通性もないのである。漱石『私の個人主義』を強度にした感覚といおうか。私にはヒットチャートもグーグルトレンドもツイッタートレンドも、テレビ番組表も人気ユーチューバーも、全く関係ない世界にしかみえないのである。

 私は自分が神的もしくは仏的な存在で、そもそも人間一般とは異なる存在なのかもしれないと思っていた。幼児の頃から、当時ことばにはできていなかったが、そうだった。現時点でもその感覚は何も変わらない。世間で生きている人々が自分と共通の遺伝子をもつ、同類だと思えた試しが一度もないのだ。確かに私の肉体は人類の生を受けている様ではあるが、私の意識、脳の方は多かれ少なかれそうではないらしい。だから私には人類が、なんらかの類人猿の進化した変種の動物にみえる。同類と睦ぶというより巨大な動物園に放り込まれた感覚だ。親友や恋人もいたことはあるが、同類ではない様でもあるのだ。
 世間の人類一般なるものは、思うに、私の脳とは非常に違った遺伝子を継いでいる。そして彼らは群れて、なんらかの騒ぎをしていて、それが彼らのいう文明社会である。私は観察者で、実際には(意識的には)参加者ではない。だから私には、そのサルの様な生物を岡目八目でみていて、或る予想がつくのだ。
 私はこの様な意識の脳を遺伝か生育中で獲得したので(幼児の時点からそうだったから主に遺伝かもしれない)、それをどう生かせばいいか思案してきた。芸術家か学者として生かせばいいのかと思いそうなったのだが、確かに世間と自分が全然違うままで終始するだけで、なんら金にならないのがわかった。それで今後は商売を修める必要ができた。今日の先進国だと、金が必要ということらしいからだ。これに気づいたのも随分あとだったのだが(今から3年位前に、経済・経営の実践面からの理解を目的にはじめた起業ごっこがきっかけで、つい最近わかってきたがまだ半信半疑)。
 しばらく勉強し、世間一般と全く違う脳の持ち主はその能力を投資で生かせるとわかったので、今後私は、或る投資家の様になるかもしれない。
 商売自体は凡人の脳が必要だ。客商売は客が自分と同等の感覚の持ち主であるのを前提にしているからだ。私は全人類に、今のところ1人も同類が見つからなかったのでこの意味で商売は全くできないとわかった。しかし投資ならできる。世間一般と全く違う考えを持てる人が有利な商業分野らしいからだ。私のこの考えが正しければ(当然間違っているかもしれない)、初期状態で全く世間と没交渉に考えられるらしい私の脳は、大投資家がそうしている市場一般に流されず資本を生かす方法に援用できるとみられる。かといって人の痛みはよくわかるから、自分の共感性は普通よりずっと優れていると思うのだが。

 なぜ今書いた日記を残したかというと、或るお笑い芸人を私は一見して怪しい、この人はろくでもないやつだとわかるのに、その人は日本社会一般では大人気? らしく、世間的にも商業的にも成功しているらしくみえるからだ。誰のこととはいわないけど、その人は間違いなく人格面で劣った人間なのだけど。
 某大投資家氏ら(複数)が、経営者で一番大事なのは人格で、一緒に仕事したいと思えなければどんなに有能でも地位にふさわしくない云々、といっていた。私もこの点は全く同意できる。が事は経営に限らないと思う。或る人の人格性の評価を、世間一般はごく軽く見ているのかもしれない。これは権威に訴える論証でそのお笑い芸人の将来予測を裏づけようというのではなく、また私が偉人振りで虚勢を張ろうというのでも無論なく、単に日記に記された事実として、或る人物の総合評価で人格の評点を低く見積もっている人たちが相当多いらしい、がそれは大失敗の素だと読者に教えたいのだ。
 有能さと人格のどちらが重要か。これは一言でいえば人格の方が大事だ。すぐわかる。特定能力は目的を誤れば失敗の原因にもなるからだし、高い人格は向社会的な利他性一般を意味するからである。しかしこういう一瞬で判断がつく問題を全く無視している限り、世間は事の表層に捉われ偽物をつかむだろう。
 必然的な層で、人の格といったものがある。文字通りの意味でもそうだ。それは企業という法人格にも恐らく適用されるのだろう。そして正しく或る人格を判定するには、個人的好き嫌いを超越して事を観察しなければならない。神仏的な能力があるとするなら、この客体的上位認知の才といえるのではないか。