ある知識を知らないことを種に、他人を見下したり謗ったり、人格的に貶めたり、愚かだと「馬鹿」(日本語の馬鹿は、「無知」の意味のサンスクリット語mohaの漢訳)など罵る人というのは、文化圏を問わずかなり広く見受けられる。だがこれは誤りだ。愚かさ一般は無知によるのではない。それは既知を使う働きの方にあてはまる。無知への謗りそのものが愚であり、人は全知に到達し得ないのだから、博学さには程度がみられるだけで、いかに博学な人にも常に無知な領域が残る。
博学さそのものを誇っている人は、同様の意味で愚を免れない。
ソクラテスの無知の知は、無知を正定立とすると、根本的に無知への反定立である。合定立は無知と無知の知を止揚した有知といえるが、少なくとも反定立の段階なしに人が有知に至りはしない。つまり有知は無知を止揚した段階ではあるにせよ、それは別の無知の定立でしかない。無知の知とは無限に無知を否定する立場なので、有知に留まるより或る意味では優れた状態である。
賢さ一般は、無知、無知の知、有知の全要素を含む、よりよく知ろうとする働き全体のことなので、ただある事柄に無知なだけで愚と見なす人は常に間違えている。それは強いていえば無知としか言い様がない。しかしこれを俗語化した「馬鹿」という愚かさとして一般化した表現で、或る事柄の無知さを指摘する人は、往々にして当人がより無知なだけで相手がより多くの有知を持っている故に(特に別分野の知識に関しては先ず確実にこれがあてはまる)、調度、崖の下(無知)から崖の上の人(有知)を罵る様な場面がよく見られる。なぜならその人は現に崖を登りつつある人(無知の知)より後塵を拝しているばかりか、自分自身が一体なにについて無知なのか自覚していないからだ。