まえピグで或る男(理論物理博士と称していた)が、ソーカル事件はおおごとだ、だから社会科学者は馬鹿だみたいに典型的な科学主義を煽ってきて、自分に『知の欺瞞』まで買わせたんだが、全部を省みてもこの男は古典としてのアリストテレスから何も学んでいないのだなと分かった。先ず厳密性は必ずしも社会科学的ではない。
次に、文学として衒学のため数学語彙を流用するのは当然ありうる詭弁の範囲だし、正確に使われていても修辞だからそれを「おおごと」とする意味が全くわからなかった。哲学的文章が自然科学的記法をとっていない、なるほど、ただの衒学ジョークだという話で、ジョイスはどうなる? 科学論文もそれを部分として含む哲学的随筆も、単に文章として色々な記法があるし、現時点の流行記法を使っていないから大騒ぎするのが謎だった。数学・物理学の用語を全く違った意味で流用したり、そもそも衒学の為に飾ると、彼は発狂する。そんなことしてたら永遠に芸術は理解できないのではないか?
恐らく、彼は教育の中で真偽判断できる「命題」を書く記法を絶対教義と考えさせられており、勿論、彼の中では自然科学用語も一種の宗教的観念で彩られており、門外漢がその神聖なるものと彼が信じている用語を流用した時点で、科学教への冒涜になる。だが私には科学は信仰対象ではないからどうでもよかった。
もう少し詳しく考える。
先ず哲学的言説は科学を含む。さらにいうと数学は科学の言語であり、科学において数学、特に数理論理学を用いた真偽判断に別の解釈を与え、その道具性を明らかにするのが、後自然学、いわゆる哲学の一つの典型的役割だ。特に倫理に関する善悪判断以外にも美醜、聖俗など幾多の判断要素があり、それらの基準が濃度だったり質だったり観点だったりするので、一律指標で評価しきれない。つまり哲学的言説は科学全体を要素として含む別の判断体系である。
ここからいうと、ソーカル事件で哲学的言説(ここではポストモダン的言説)風に書かれた文章が、真偽判断に必要な前提条件を踏んでいなかった、いわば数式その他をでたらめに衒学のため使っていたというのは、要はソフィストら詭弁家と変わらない部分を含んでいたといえる。これが有体の理解だ。
ところでそこで提出された文章が「ポストモダン的言説が科学的に無意味な衒学を含む」と皮肉によって証明する目的で書かれたものなら、我々はこれを一つの哲学的言説とみなせる。
つまり、私が「で?」「だから何」と感じ、昨日いった理論物理博士の大慌てや社会科学への侮蔑に繋がらなかったのは、彼が信じる類の無矛盾な真偽判断の体系でなければならない必然性は、哲学的言説には必ずしもない、この場合は特にポストモダン言説の詭弁を暴く為なので尚更そうと知っているからだ。いいかえれば、厳密な真偽判断が必要な哲学的考察の場合に、この種の衒学を用いるのは全くお門違いとなるだろうし、当然その様な真偽を明らかにする目的なしに自然科学なり数学的詭弁を弄するのはしばしば露悪的もしくは俗物根性でもあるが、だからといって社会科学全体の非厳密性と関係してはいない。
もし詩劇の様な言説で、敢えて或る人物に詭弁家を演じさせたり自身が演じたりする時、あるいは俗物根性の塊である或る人柄を示す兆候で、科学的に意味をなさない理科風の表現を使うのは、無論ある範囲だ。文芸や演劇、言語芸術の一切も哲学的言説の批評対象なので、その範畴で非科学的な表現は可能なだけである。社会科学の範囲には物理学等と同程度に厳密さが要求される知識(例えば実証を目的とした統計処理が必要な知識)もあれば、そうでなく多義的で抽象的な内容を扱う知識(例えば文化人類学での民話の扱い)もある。宗教学とか芸術学についても同じことが言える。結局、当物理博士は社会科学の分野にも哲学にも素人なのだ。
幾つかの「科学者の不正」を調べてみたけど、恐らく私が会話した某物理博士は、この科学倫理と、哲学的諧謔を混同していたのではないか?
確かに真なるものを厳密に実証する際、衒学や詭弁の類はその信頼性を損なうだけだ。この意味で科学倫理は必要である。
一方、「哲学者の不正」として偽なる命題とか、そもそも分かりづらさを知的権威を誤認させるため、真偽判断と関係ない科学的命題らしきもの、あるいはお為ごかしの適当で複雑な数式を用いるといった振る舞いは、いわゆる衒学か詭弁になるが、ソーカル事件の場合、これは皮肉な冗談として行われている。つまりここでいう不正さは、真偽、善悪、美醜、聖俗など何らかの判断を行わせる為でなく、露悪の為に行われたので或る意味で正しい使われ方となる。美術でいうデュシャン『泉』が果たしたお高く留まった美術制度への批判的役割と、ソーカル事件の哲学界に果たした役割は相似で、要は制度の批判な訳だ。
科学倫理について、或る人が誠実に真理の探求を、いかなる悪意や不正もなく行っている証拠づけをとる、この態度がきちんと真理を語る際に必要なのは確かなのだろうが、私はこれにも幾らか疑問がある。先ず不完全性定理と脱構築をあわせみると、或る理論の完全さはそのメタ考察なしには確認できない。いいかえると或る理論の中での科学倫理なる態度は、それ自体が外からの別の命題による検証なしには完全(無矛盾)といえない。即ち、或る理論とそれを裏付けている倫理は、別の理論によってしか確からしさを客観的に主張できないわけだ。これが全科学は仮説(信仰)の体系でしかない本質的理由である。よって、科学倫理は或る信仰集団(学会等)で是とされている態度があるに過ぎず、その信徒らに認められる為に必要な限定的なものである。これがガリレオ裁判の起きた一つの理由だ。STAPをめぐる小保方氏の立場にも、同じことが言えると私は思っている。真理を明かす手続きは信徒の倫理観で千差万別だ。今後ある時点で、現時点で偽とされている或る命題が何らかの点で真だったと明かされる時、それは検証含む或る科学倫理を別の科学倫理によって多少あれ否定した時だともいえる。同じ態度によっては同じ結果しか得られないからだ。
こういうわけで、私は科学倫理を疑わしく感じており、或る学会や或る仮説検証の態度のみを以て、或る論文の主張を全面的に偽と断定するのは、大いに誤りを含む拙速で愚かな態度だと思っている。具体的に小保方氏を科学倫理の面で糾弾した京大閥や理研の人々は、ガリレオ裁判に何かを学んだのだろうか。
本当に科学的な態度とは、いかなる真偽を見分けられる命題も反証できるし、だからといって或る時代または信徒の前提となっている科学常識を否定した別の理論によってしかより高次の、または別観点の真理はみいだされない以上、全ての断定を避けることではないだろうか。例えば「STAPは理研等による現時点の特定の再現実験では検証できなかった」とは言えるが、それで即ち「STAPは存在しない」と断定し得ないのは確かであり、そうであれば小保方氏がみつけていた或る現象が別の角度から部分的に真実を含んでいたと認められるのも近い将来、十分ありそうなことと私は思う。小保方氏の博論に画像の無断引用などが含まれていたのは、彼女自身が草稿が誤って掲載されてしまった為と述べているらしいので、科学倫理的にこれ自体が糾弾されるのは解せない。悪意ある匿名ルサンチマン衆愚世論に媚びたマスメディアや、京大iPS細胞閥からの商魂やプライドに基づく不当な非難だ。
もしよりよい科学上の真理がみつかれば、それがもたらす全く新たな常識や、社会的便益をとりいれより進歩的な理論を採用するのがあるべき科学者の態度なのであり、万が一にも自身のノーベル賞による権威付けだの学閥商売だのを目的に、特定の言論を不当に弾圧したというなら(私個人は、当時検証にあたっていた人達の目的はきっとそうでないと思うが)、これ自体が科学倫理に悖るといえる。即ちSTAP現象が未来永劫、存在しない偽の理論だというはっきりした証拠がない限り、いやもしそれがあってもだが、別の理論によってしか既存の理論の誤りは修正されない以上、STAP現象を主張している小保方氏や当時の理研のチームを京大閥が叩いていた風だったのは、第三者として全く穏当ではなかった。
そして「倫理」は、科学理論にとって必要条件では全然ない。手続きが不埒かつ滅茶苦茶でも真なのがはっきりした命題をみいだしていれば、それは科学的真だからだ。ただその理論の確からしさを検証するのが困難だ、ゆえに反証テストを繰り返し耐え抜いた信頼性も乏しいというだけだ。
話を戻すと、ソーカル事件は雑誌『ソーシャル・テクスト』が数学・物理学の専門用語をでたらめに衒学・詭弁として使った論文をまじめに掲載したのが「哲学倫理」に悖るかの議論を引き起こした点で、意義深かったのであり、それが即ち「或る科学倫理への冒涜だ」とは到底いえない。
そもそも科学(1は、それらを包含する「知恵を友愛する」(2ことなしに確からしさを検証できない。
(1 ラテン語scire(知る)→現在分詞sciens→派生語scientiaを経由した英語名詞scienceの和訳で、原義は「知」「知識」
(2 哲学はギリシア語philosophiaの和訳。philos(友愛する)+sophos(知恵)
これは「知恵の友愛」を和訳した哲学なるものが、全知識(全科学)を含む概念ということなので、或る数学・物理学用語を真偽判断の厳密な用法で使うのが必要なのは、或る言説が科学的真を主張したい時に限られる。つまりここで非難されるべきなのは「衒学」や「詭弁」であり、社会科学や哲学ではない。
ケインズが『一般理論』で述べていたが、経済学でも日常語で説明可能な部分にわざわざ数式を使って複雑めかすのは無意味だ。即ち、オッカムの剃刀と同じ意味で、或る主張に専門的な数学・物理学用語を不必要に使うのは、ほぼ真偽不明で誰にも理解されえない言説を加え、自身の理論を権威付けする為だ。
この種の衒学を「科学主義的衒学」、また数学や科学の言葉を詭弁に用いるのを「科学主義的詭弁」と私はここで仮名する。これらは当の物理博士が社会科学や哲学の科学倫理に悖る流行または不信の根拠と考えたのと違って、単なる自然科学や数学の内部でも頻繁に見られる衒学・詭弁の手法でもある。
結論をいえば、数学や科学はできるだけ最小で最も簡単な要素から或る真の命題を導かねばならず、不必要な部分が最小であればあるほどその理論の価値は高い。なぜならこれらは検証不能な部分をなくすことが反証テストに耐えやすくする十分条件だからだ。一方、哲学は反証性を含むので冗長でも構わない。