この世には常に不満や愚痴ばかり託っている死んだ方がいい様な愚物がいて、しかも実際に彼らは自殺願望を抱いていることがある。彼らの中でも悪性者は常に差別や悪意ある偏見をまきちらし弱者虐待を趣味にしていることさえある。総じてこれらは当人の認識の誤謬から生まれてもいるので、本質的に生まれながらのIQの低さ等に原因があるかもしれない。
結局自殺願望をもつ人間にはそれだけの理由があるというのが少なくとも私のみた範囲での事実だった。遺伝か環境、又は文化のどれかかそれらの複数に原因があって、当人達の暗愚さが自滅した方がましな状況に彼らを置いている。子供の場合でも同じで、愚劣な人間集団に親が無理やり引きずり込み自殺へ追い詰めていたり、それに親自身が気づかぬばかりか苦行に我慢させる以外の選択肢を想像していなかったりする。つまりは死んだ方がいい様な親が、死んだ方がいい様な集団の中で死んだ方がましな子供を育てている訳でそこに救いはない。この意味で自殺願望をもっている子供は必然にそうなのであり、例え周囲に原因があるとしても子供の能力でそこを抜け出せない場合、周囲の影響で自死を択ぶのが合理的になっている。
自殺した方が世の為である様なサイコパスの悪質な部類というのもいて、そういう人間の自殺願望は寧ろ人類に公益でさえある。万が一生き残り子供でも生み育ててしまえばその子供にとっても地獄の幼児期が待っているのだから。
自殺願望をもっている人達を安易に救おうとすれば必ず上記の現実に直面し、一体救う結果の方が反社会的となる場面に直面するだろう。つまり自殺への同情とか、踏みとどまらせようとする善意は、実は単なる社会側の偽善なのである。その人から得られる公益を期待しているから救おうとするのだし、家族や知り合いなら私益がそれに該当する。要は当人の快苦と無関係に第三者の都合で死を諫めている。だから自殺志願者はもともと、宗教的観念を抜きにすれば安楽死やその他の方法で死ぬ権利があると言っていいが、問題はそれを有害な場合と有益な場合に仕分けづらい、または見分けられないことだ。
ただ確かにいえるのは、実際に性悪的な人間は死んだ方が世の為であり、そういう人が自殺願望をもっていて当人の意思で死んだ時それは公益に類する可能性がある。だから一様に自殺が悪だといいきれるとは限らない。