きのう、自分の歌声をはじめて自分で聴いて、自分が男性だとやっと気づいた。それで思い出したのだが、或る友人が自分に「女好きじゃないんですか?」と言ってきたことがあった(中立っぽくはあったけど、どちらかといえば批判的な文脈でもあった様な口調だった)。当時の僕はダビンチの忠告に従い人物画の為に美しい女性像とは何かを研究していたに過ぎないのだが、よく考えると動物として人が異性を好むのは極めて自然な話であり、その友人は18の時にもにょもにょを借りていた男なのに、そうでない自分が異性を好むのがおかしいとでもいいたかったのだろうか?
で自分の声を聴いてみた所、普通に男らしい声だったので驚いた。自分はかなり長い間、自分の性を否定していたからだ。動物を超えた神の様な存在に近づこうとしていた。が世人は普通に自分の本能に従って異性と性関係をもっていると思うのだが、その友人は何が言いたかったのだろうか。
異性を好むことが悪なのか善なのか、恐らく善悪どちらの場合もあるが、少なくとも美に近い様な気がする。我々の脳内で美を感じる部位(一説に内側眼窩前頭皮質)は、たぶん性本能と一致している様に思う。自分の意見では、美とは異性愛を感じる部位を他の事物にも延伸して用いるものである。
鳥が歌うのは基本的に求愛の為だ。人の歌も起源は同じではないか。いいかえれば、人間が化粧したり、着飾ったり、身の回りを美化するのは、求愛を高度化した結果といえよう。芸術の起源には異性愛が深く関わっている。古くから短歌の殆どは求愛の歌だ。
結局、あの友人は、美術の起源にある求愛を軽く否定したがっていた様に思う。今にして思うのは彼が間違っている。むしろより求愛の力を強くした結果、余りの技術力の高さに同性さえ畏怖の念や愛の深さから感動をおぼえる、という次元まで進むべきなのだ。
わたしは結構大勢の画家志望の若者達をみたけど、絵描きをめざす様な男というのは先ず全員、暴力傾向が非常に低い。女みたいな男ばかりである。それは僕も例外ではなかった。女の様に、いやそれ以上に優しく、思いやり深く繊細なのだ。人に共感する能力が高い人達であり、戦争などする筈もない人達だ。動物でもそうだけど、求愛のため歌をうたったり着飾ったりする種というのは、直接の暴力は好まないのである。これがなぜ画学生とか画家が、女みたいに優しく、暴力を嫌うのかの訳であり、我々は全精力を自作の洗練に使っている。そこで勝負をしているので、直接の暴力は野蛮だと思っているのだ。音楽に涙したり、小説に感動したり、絵の前を離れず深くしげしげ感慨に耽ったりする男というのは、まず間違いなく反戦主義になるものだ。他の芸術家の作品に感激した暁には心から賞賛を惜しまない。そこに友情がある。自分は、絵描きのこの暴力を好まないという点は非常によいところだと思っている。
同性さえ感動させる偉大な作品をつくりあげ、異性に求愛するという文明における競争が行われるかぎり、そこに暴力の介在する余地はない。日々、芸術家志望の若者がしているよう、一生懸命自分の作品づくりに打ち込むだけだ。求愛の結果、異性の愛を得たなら極めて自然で愛でたいことではないか? しばしば、画家なり芸術家は、精力的で一夫多妻生活していたピカソのイメージで好色漢みたいに語られるけど、これは画家に限らない話で、要するに健康度が高い人ならどの職業でも異性をひきつける。よって堅物でなければ恋愛・性愛関係が多くなるということだ。元々、芸術が求愛目的なら当然といえる。