2019年3月27日

皇室民間化で大統領制の共和政府を樹立するのが本来の日本の伝統

政教分離できていないこと、政治と宗教を混同していることを、一部の日本人が誇るのはどうしてなのだろう? 中世的な考え方をそのまま持ち続けるのが、近代以後の文明に参加するより優れてると思い込めるのは本当に不思議だ。ここの返信欄の人達(日本の統治形式が、古代から一様に続く天皇統治であるかの様に各国と比較してある、歴史学的に間違った世界史年表、すなわち縄文・弥生時代以前の共和政、古墳王権、摂関政治、戦国大名統治、将軍統治、戦後民主主義などを万世一系論で改竄してある年表に対して、「日本を誇りに思う」「天皇弥栄」等と述べている)の脳は、ほぼ徳川光圀公(以下義公)と同じ考えへ彼の『大日本史』執筆開始から374年後に到達し、今になって水戸学の基本理念の改竄版(義公の万代一系論でなく薩長によって改竄された万世一系論)を思いっきり礼賛することになってるのだが、知識人は一般大衆から最低でも400年は先を行くんだね。
 義公のほぼ同時代人だったジョン・ロックは『統治二論』で政教分離の起源の一つといえる王権神授説の否定をしてるが、義公の万代一系論(女帝がいた歴史から男系血統でなく代に一系の王朝の根拠を認める考え)は逆に政教一致の象徴天皇が永続することを易姓革命のなかった日本国政の独自形式と考えた。政教分離が行われた英米で王と教皇の権威は分けられ、結果、日本の政教一致による天皇制ファシズムに陥り様がなかった。戦後、GHQは日本人統治の便宜に政教分離原則を象徴天皇制と同居させた憲法を許可したが、国民側は神道教祖が象徴な矛盾を指摘し、皇室を民間人化するだけの知恵がなかった。
 さしずめ徳川慶喜公が大政奉還しなかったら日本国王として現存し、皇室は教皇として、将軍は王として西洋風の象徴君主国になっていたかもしれない。薩長の政権簒奪の悪意が見抜かれ、欧米列強が日本の植民地化のため傀儡戦争を企んでいた幕末の緊迫した状況下で、自己犠牲による将軍職返上を選んだ慶喜公の判断が日帝の天皇大権、戦後の象徴天皇制確立に繋がっている。慶喜公が父・徳川斉昭公(烈公)による庭訓や水戸弘道館での尊王教育を否定し、皇軍と戦っていたら東西の主要都市が壊滅し、主要な藩が弱った所で日本全土は欧米列強の分割植民地になっていたろう。
 昭和・平成日本がこれまで通り象徴君主国の体面と政教一致の宗教支配を兼ねている、という義公の枠組みは、右翼や一般日本国民の中で全く否定されていない。自分は常陸国水戸藩(現茨城県)の一末裔として旧水戸学をのりこえるべく皇室民間化で政教分離した共和政府を樹立すべき、と考えたが、いつ実現されるだろう?
 鳩山由紀夫氏は新共和主義研究会という集会に参加している様だが、参加者の小林正弥氏は形式的王権の一種としてイギリス王室と日本の皇室を同値に扱い、皇室民間化を含む共和政府を目指しているのでないことが分かる。つまり公共善を政党に優越しよう、というに過ぎない。
 真の共和政(善き多数政治)は構成員が全員等しい政治参加権をもつ、象徴王権・象徴天皇制と分離されたものでなければならない。世界の名目君主国は真に共和政の国とはいえない。また三権分立の点から国民選挙による大統領制をとり、行政府と立法府を分離しなければならない。弥生時代に天皇が(恐らく中国から)渡来してくる以前、或いは古墳時代に各地に王権があったとしても、日本は12万年の殆どの間、共和政をとっていたと考えられるのだから、単独支配(天皇・将軍統治)や少数支配(摂関・大名統治)は寧ろ全体の例外的な時期に該当した、と考えるべきだろう。