どんどん全身にタトゥー入れて人生に後悔しまくったらいいと思う。整形、化粧、ピアス、肉体改造、自傷癖、その他の傷、老化、下半身不随とか山ほどいるだけに、刺青だけ差別されてる意味がわからない。遺伝子さえ操作してる人もいるし、親孝行と肉体変更は分けて考えよう。自分はやらないけど!
勉強するのも自然なままの脳に加える不可逆な肉体改造だし、刺青が不可逆じゃなくなる日もくるだろうし、不可逆的な肉体改造を忌避するというのはなんでなんだろう? 『孝経』でいう身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり、の意味だけなの?
思うに自然なままの状態で競争させることが、生後の肉体改造を含めたより複雑な性的魅力の競争より単純だから、選ぶ側にとって都合がいい、といいたいがため不可逆な肉体改造を禁忌する戒めがあるんではないだろうか。整形後の顔は遺伝しないけど整形を選ぶ脳の遺伝子は残るわけで、より複雑な競争だ。「遺伝形質は遺伝するが、獲得形質は遺伝しない」故に「遺伝子同士の生存競争をより単純に展開させよう」とするのは、矛盾ではないか? いろいろな工夫をして遺伝的劣位を補おうとする遺伝形質の中に、人間が作ってきた文明という複雑な擬態の競争が含まれているので、それ抜きには野蛮な状態に返る。
生まれつきの差だけで生存競争を終わらせようとするのが、肉体改造への忌避の理由だとしたら、そこにあるのは遺伝子差別だけだから、生まれつきできがいい人間に誰も勝てないので生後に誰も努力しなくなるだろう。したがって肉体改造を禁忌すると、結果的に文明を衰退させるのでは?
刺青は今のところある程度不可逆な肉体改造によって体に絵を入れるというある種の化粧だから、それが通過儀礼を含む文化の一部である民族もいるよう、特に忌避される理由がみあたらない。他の不可逆な改造も同じ。ただ儒教圏では『孝経』の考え方が潜在的に残っていて倫理的に問題視されるのだと思う。勉強は思春期前後にIQを最大で20くらい変化させるらしいから、明らかに脳の肉体改造に該当する筈だ。がり勉を忌む考えもあるが、日韓では18前後で奇跡的に受かった大学の学歴を一生誇りにしてたり、科挙のまねから来た受験勉強という肉体改造が、その文明の一部を(主に負の意味で)構成している。つまり儒教の影響が『孝経』を通じ刺青への過度の禁忌に、その他の経典を通じ受験勉強を通じた脳という肉体改造への固執につながっている。どちらもただの文化的偏見だから、刺青文化のある民族に科挙の影響がなかったら、彼らから日本文化は異様にみえるだけだろう。