学問はすればするほど自分の判断が「確実に正しい」といいきれないと悟る(寧ろ無数の対立・矛盾した複合的見解を同時に検討できる様になる)ので、自分に学がある、と誇っている人(知識人や文化人等と呼ばれる人達、又は学歴主義者)は少なくとも学問をしたとはいえず、何かに洗脳されただけだ。
根拠信仰、という最近はやりの科学論文への宗教的態度は、実証主義の堕落した姿であり、自ら検証実験や経験をせず権威(つまり虚構の肩書き)のある他人がしたことを信頼の根拠にしているので、真実さを殆ど保障していない。二次資料に基づいたウィキペディアは偏見で埋まった作り話でしかない。科学信仰の足場がこれほど脆弱なのに、それを宗教的殿堂として大学というご大層な信者の施設を作り、論文の引用回数という知性自体とは程遠い人気取りの権力闘争による教授の権威というものはますます悪質な学生洗脳の装置と化している。勿論、教授を本質的に疑うことだけが正しい知性のあり方だ。
教授とか博士と呼ばれている人達は、別の教授に媚を売ることでその洗脳に服した証として博士等の肩書きを受けた、いわば宗派の囚人である。この意味で博士が賢いというのはただの思い込みで、特定の教授らと近い類型の脳をもっていると主観的に免許皆伝された人、というだけにすぎない。スコラ学者や占い師の世界でも特定の免許が存在したよう、元々の知識の真偽は教授らの与える免状(学位や賞等)ではなんら保障されない。だから科学教の総本山であるところの各大学・大学院は、政府によって制度化された特定宗教施設という意味以外をもっていないのである。
この世で知能は単に多様化している。そして特定の体系性の中で正誤の規則をつけ、その教条的な秩序の上で賢愚を仮定しているのだが、この判定基準は永久に添削者の偏見でしかなく、体系自体の正しさも保障できない。賢愚が存在するとしてもこの意味で必ず部分的であり、いずれ覆される虚構でしかない。ある賢さと呼ばれている特長は、実際には別の面から見れば愚かさの一類型である。なぜならその脳の偏向は別の状況下では正しく機能しないからだ。勿論、科学教の中で最も確度が高いとされている物理学上の実証性や、その為の記号という道具としての数学の公理体系も、このことは変わらない。理性、知性、感性、感情など様々な呼び方で脳の特定の働き方を人類はこれまで優劣の体系に結びつけようとした。だがそれらは全て教条的宗派の活動だった、と断言できよう。障害と差別される脳の類型や、他の動物の方が生存に有利な場面がある限り、人類の或る博士号保持者の脳は決して万能ではない。
脳という可塑的な身体部位について、典型的な免状(学位)に当てはめた型を優劣の早まった一般化の前提として置いたマイケルスペンスは、結果として大学という宗教団体の回し者を演じている。それは知能の可能性を狭め企業に管理し易い機械を選ばせるに過ぎず、創造的社会の阻害要因にしかなりえない。既にその失敗例が科挙という官僚主義の発生源として古来みられたのに、彼は歴代中国王朝の滅亡に学ばなかった。同様に大企業病の克服を果たせない理由が、学歴人事差別による類似型の人材による保守化にあると見抜けなかった。