2019年3月3日

芸術家は想像界に出入りできる才能の持ち主

今から書くことはラカンの理論とはある程度ずれているかもしれないし、糸崎公朗氏がYouTube動画内でいっていることとも違うと思う。自分にいえるのは、糸崎氏が言うのと違って芸術家は現実界に生きるのではなく、できるだけ長い時間、想像界に生きる必要がある。
 自分が定義する現実界は(ラカンの触れられない物自体という、より抽象的な意味ではなく)単純に肉体など物理的な存在であり、象徴界は言語世界、想像界は両者を繋ぐ五感を通じた感性的世界である。芸術家の仕事は、言語世界と現実を想像によって結びつけ、自分を含む人類に言語だけでは単なる文字や音声でしかない何らかの理想を認知させることだ。そして芸術の役割がその様な連結作業であるからには、なるだけ長い時間、為事の場である想像の世界に生きている必要がある。
為事(しごと)という文字は仕事の初期の書き方で、江戸時代を通じて仕えるという文字に置き換えられる以前、人々が単に「すること」を決めて活動していた、という意味を強調する為に自分が使う。会社員や公務員以外のしごとは上司や国民に仕えていないことがあり、為事の文字がよりふさわしい)
単に言語の中だけに生きている人はこの世に存在しない。象徴界に最も親しんでいる人は哲学を専門的な為事にしている人といえるが、アリストテレスが理想としたのはその様な生活であり、神に最も近い生き方と定義したのだった。だから哲学者の現実の容貌は我々にとってはあまり重要ではない。詩人や小説家、噺家などは言語芸術の担い手だが、哲学は言語という象徴を用いる限り、主に詩(散文詩を含む)を通じてしか自他に伝達されない。つまり哲学者と言われてきた人々(自然哲学者としての科学者を含む)は言語芸術家の一種である。宗教とは後世から見た哲学の流派のことだ。この意味で、いかなる哲学者も究極のところ、想像界と象徴界の結節点でしか言語表現をなしえない。だから哲学者(知恵を友愛する者)という名義はより象徴性の高い表現をした言語芸術家のことであり、視聴覚や空間を用いる他の芸術家らにも実際にはあてはまる。芸術表現は詩を含め、現実に何らかの形(文字、絵、建物、音、味、触感、香りなど)をとりながら、何かを象徴させる。この意味で象徴性が高い芸術表現であればあるほど、それはよりよく現実界と象徴界の結合という想像界の役割を果たしていることになる。
 糸崎氏は某氏と意見が対立し、顔や実名を出さず現実界(彼の中ではラカンの意味ではなくより日常語に近い意味での現実)に属さず活動するのは「子供のままでお話にならない」「貴族としてあるまじき」態度だと動画等で述べていたが、象徴界のみに生きるつもりの某氏はその不可能性を知らないのだ。一方で、哲学者の為事は象徴界の中でより高い理想に到達することだから、その人の顔形のよう世俗的な現実性はそれに対し何の意味ももっていない。つまり顔や実名をもっていなくても、この理想への到達ができていれば、問題はないことになる。言語等での表現を通じてしかそのことはできないが。
 匿名や偽名を使う日本人達は、一般にはこの様な象徴界に接近する目的でそうしているわけではなく、実名や顔を隠し個人特定されない条件を悪用するか、いつでも逃げられる護身のつもりでそうしている。この様な卑俗さはそもそも豊かな象徴界(語彙)を持っていない人が陥りがちな現実と想像の混同だ。ラカンの言うところでは現実と象徴がほぼ一致している状態を狂気とか精神病の条件としていた様だが、この意味で日本人一般は狂気か精神病に属する。だから彼らは匿名・偽名を常に悪用しているし、その種の条件下では狂人としか言い様がない蛮行をしていて、当然ながら現実的に精神を病んでいるのだ。オタク化している若者(およそ20代以下のゆとり教育を受けた人達)は本や文字を読まなくなっているので、象徴界がどんどん貧困になり、結果、想像と現実の境目をなくしている。だからしばしば彼らは戦争を想像上のものと考え安倍政権の戦争法を応援したり、周辺国との紛争を煽る。二次元アイドルを熱愛する。主に彼ら20代以下の若者はラカンのいう狂気・精神病の症状を示しており、彼らの中では漫画やアニメ、ラノベ(ライトノベルと呼ばれるしばしば低俗な性的妄想を含む空想小説)、ゲームといった想像界と現実界はほぼ一体のもので、サブカルチャーの内容に生きているし、象徴界は退化している。
 現代芸術が現実主義を否定するのはこの意味では全く正しい。できるだけ現実に似た模倣表現を用いないからこそ、想像の象徴性のみが伝えられる。