2019年3月24日

日本国民一般は地域差別主義者で同国民に群れるのを脳遺伝子レベルで好むので強制力で集団いじめを罰するしかない

日本人の大部分の人は私の生まれ育って暮らしている県を「魅力度が最低」といって差別してくるのだけど(特に京都の人や、東京都民、その他の大都市居住者により一層その傾向がある)、もし「差別主義者は社会的体面が必要ない人」が真実なら、日本人の大部分はその様だ。関わる価値がない国民なのか。
「日本人一般(特に大都市居住者)は、差別主義者ゆえ、関わる価値のない国民である」という命題が真実なら、日本語で読み書きしても無駄だということになりそうだ。はじめから英語か中国語で教育されていれば、日本語という母語に縛られて、関わる価値のない国民と情報のやりとりなどしなくて済んだのだが。今からでも日本語を使わない様に再び自己改造するしかないのだろうか。英語で読み書きするのは日本語でそうするより脳の負担が大きいのだが。
 ごく少数は日本語圏でも、差別主義に染まっていない人がいる可能性がある、と考えて日本語を使ってきたのだが、確かに自分の人生ではたった1人しかそういう人は見つけられなかった。その人ですら、自分がその人にかけられていた洗脳を解こうとして、はじめて、当人が差別に気づいた様だった。藤原正彦はとんだ間違った方向に啓蒙的な書物を著したものだ(『祖国とは国語』『国家の品格』等)。「日本人の大部分は、単なる差別主義者であるから、関わる価値のない国民である」「母語である日本語をはじめから捨て、英語や中国語で関わる価値のある国民とやりとりすべきである」と言えば正しかったのに。
 日本人の大部分はこの種の「恥」「世間体」から予想される制裁措置でしか悪行をやめないのは全くの事実の様に思う。そしてそれをやめる時も制裁されないよう具体的脅威の恐怖からやめるのであって、罪悪感というものは全くもっていない。いってみれば根っからの性悪で犯罪者気質だといえると思う。勿論、自分のようその種の日本人気質と殆ど正反対の個人(内面の良心に基づいてのみ行動し、恥や世間体といったものを顧慮しない傾向にある)もいるので、全員が性悪でないのも明らかだが。
 日本国民は群れて少数者を叩き潰すことを正義と勘違いしている集団いじめ主義者がほぼ全員で、しかもその悪行を制度化している自民党一党支配体制もあるので、救いがないし、この大学の判断(秋田公立美術大学が2019年3月21日の卒業式で、謝辞中で学生が陸上自衛隊新屋演習場への地上イージス配備計画に触れ、「平和な生活を過ごせるよう願う」と述べようとしたが、大学側の要請で取りやめた判断)も無理はないと思う。この島国で「個性的少数派」を選んだ途端、衆愚から権力乱用で死に追い詰められるので。一学生が声をあげて集団いじめ(政治的にはファシズム)に抗おうとしたところで、日本国民全体はその集団いじめ原理を正義と固く信じきっているし、反省するほど賢くない。
 しかも、日本国民全般がなぜそういう集団いじめ・ファシズムに走るかといえば脳の遺伝子にセロトニン・トランスポーター数が不足して生まれついていて、不安になり易いから群れて安心感を得たがる、というのが主な原因の一つの様なので、一種の民族病・風土病・遺伝病で直り様がない。
 最善なのは「日本国民を相手にしない」ことだ。直らない人達を相手にしている時間は無駄だ。脳遺伝子をとりかえられない以上、教育によって変化する範囲は超えていると思うので、半永久的に衆愚的集団いじめやファシズムを繰り返す集団と見なし、その種の犯罪衆愚を扱う仕方でのみ接するべきだろう。実際に、自力で日本人らが集団いじめをしている現場でそれを強制的にとめようとしたことがある人はわかると思うが、現実的には警察や自衛隊の様な具体的暴力を使わない限り絶対にやめようとしない。群れの大きな側に入っている方が安全だ、という鰯の様な行動規則で日本人一般は動くのである。
 或る一般人の主婦の人(静岡県民)が、国連で日本が注意を受けたと聴いたら「国連なんて無視していいよね!」と大真面目にいっていて、自分は大層びっくりしたことがある。しかし日本人一般の見ている群れつつ集団犯罪する準拠集団というのは、島国根性というべきか人類ではなく日本国民だけの様だ。