2019年2月25日

自身とPOMをドラえもんのび太の隣に描いた村上隆の絵に寄せた感想

今まで見た村上隆の作品で一番いい。最初は「またか」と思ったけど、キャプションをよく読むと、なぜ村上が漫画を愛しているかの理由が分かるしくみになっていた。のび太は孤独でもドラえもんというロボットがいたよう、村上にはポムという(最近がんを患った)相棒がいた、ありがとうと書いてある。
 村上の平面性の強調という彼自身を縛っているスーパーフラット・イデオロギーはどこでもドアの中に敷かれた四次元空間にすら、辛うじて濃淡を伴う装飾が光を感じさせはするが、適用されている。この四次元空間が死の暗喩だとすると、漫画という幻想の中で死を望んでいる村上とポムの覚悟がわかる。いわば彼は二次元平面の中で自己を歴史化し、未来の別の次元で自分のミームが生き続けることを望んでいる。それをふさわしく象徴化したのがこの絵で、彼が予備校講師時代にデッサン学生の為に用意していた花、特に皇室の象徴でもある永遠性を暗喩する菊の花(葬式でも用いられる)で自己を覆っている。ドラえもんのキャラクターを使うのが著作権に触れるのは明らかだから藤子スタジオに許可は多分とってあるのだろうけど、ウォーホルやリキテンシュタイン、クーンズに至るコミックスの引用という手法を踏襲しているのは使い古された手法だが、仏画風の文字入れで私小説的意味を与えているのが新しい。
 ただこれが純粋絵画の意味で正しい手法だとはいえない、論争を呼ぶ問題提起ではある、というのがこの絵の限界だ。文字による情報伝達は文芸の手法なのだから、絵の手法としては応用的なものにとどまるだろう。単に絵画的な要素のみを用いて、同等以上の深い感情表現を行うのが画家としての仕事だ。漫画の噴出しを仏画にみられる経典の書道的な書き入れと、文脈的に重ねて使う、というのが近作で村上が試みていることみたいだが、この絵にもみられるアクションペインティングやミニマリズムと関連性をみいだせる花のランダムな色の配置など、文脈主義そのものはもう使い古されているのでつまらない。村上隆は文脈主義を彼自身のマントラみたいに使っているが、それ自体がもう嫌味という効果しかもっていないのではないか? 何しろ彼も同世代ハーストも商業的にこの上なく成功し、自己をほぼ歴史化できたのだからこれ以上なにを上書きしようというのだろう。文脈的引用を重ねるのは過剰装飾に見える。他人は村上が文脈主義に則って絵を描いているということは嫌というほどわかっているのだから(寧ろそれしかないと思われているだろう)、屋上屋を重ね何になるという。冗長すぎるのだ。ポストモダンの過去の手法の流用的な画家の一人に過ぎなかったと思われるのが落ちだろう。
 さらによく考えると、村上が漫画を愛しているかどうかは他人にはどうでもいいことであって、この絵が人に何かしら訴えるところがあるのは、ドラえもんの中でのび太との友情として語られ伝えられた概念が、村上とポムの間の友情として現実に存在している、ということなのだ。漫画による友情の学習。友情を象徴化し、彼の愛する漫画や欧米日の伝統的美術の延長上に位置する表現形態を使って、一ヶ所に集約し表現しようと試みたのがこの絵の飛躍的な点なのだが、正方形の中央に置かれた(構図的に視覚を集め易い)四次元空間が死を暗喩している為、どこか薄暗い所を持っていて、恐ろしい感じがする。いいかえれば漫画や絵画が単に死後を前提に残された遺書の様なものだ、とここで村上は図らずも語っている。ポムとの間の友情ですら、仏教的な空(クウ)の中で融解し、幻想と混濁しながら消えていってしまう。そのむなしさが最も空恐ろしい。絵描きはどれほど同時代で成功してもその種の空しさから逃げ得ない。寧ろ進んでその空虚に進んでいかねばならない、と彼は語りかけているのである。