2019年2月12日

ツイッター利用法の分析

ツイッターみたいな俗界との接点は、僕には苦痛なんだが、この苦痛は意味がある苦痛なんだろうか? 自分が感心して学ぶことは少なく、どちらかといえば何でこんな集団浅慮を持ってる人が多いんだろうと思うことが多い。 きのうまで、僕はツイッター上で他人の愚かさの様に見えるものが自分の勘違いではないかと疑っていて、なるだけその愚かな発言をしている様に見える人達の側に正当性がないかに注意深くなろうと努力していた。それで、苦痛ながらツイッターを眺めていた。
「この人の方が本当は正しいのに、自分が愚かだからある種の偏見で、相手の方が愚かと思い込みたいだけではないのか? もしそうなら、とりあえずこの愚かなことをいっている様にみえる人の正当性を隈なく再確認してみるべきだ」と、自分にいいきかせて、それで頭を使ってツイッターを渉猟していた。結果、今の時点までツイッターの殆どは僕には苦痛だった。再検討した意見を一々反証していっても、見るべき成果の様なものがあまり手に入らず、どちらかといえば意見の誤りが見つかって、一々それを見逃しにする苦痛から逃れる為になんらかのより正しい意見を記述せざるをえなくなってしまった。
 ツイッター上に浮かんでいる多くの意見というのはなんらかの科学的検証に耐えたものではない。単なる個人の偏見がほぼ全てだ。科学者と名乗っている人がツイッター有名人として易々と記述していることも例外ではなかった。しかもそこに見つかる誤りはすぐ分かるほど初歩的なことさえあった。
 大体2ヶ月ほど真面目に参加してみてわかったのは、ツイッターは基本的に参加しない方がよいということだ。なぜならここに何かを書いている人達は気軽にウソをついている様なもので、それらの信憑性など特に気にしてなどいない。いわばポスト真実の集まりだったのだ。個人の手帳みたいなものだ。
 ツイッターの最も正しい使い道は、恐らく興味のある知識人、文化人など(まあそれでもあまり一流の人はいないのだが)をフォローし、彼らの最新の動向を見るのに使えるということだ。他に投資をしている人は最新の企業情報を即時的に調べるのに使っているだろう。だがこれくらいが自分が見た有益性だ。いわゆる一般人のさえずりというのは愚にもつかないし、みるべきものもなければ科学的認識の誤りがあまりに多い上に、殆どは同調圧力か何かに負け誰かのツイートに同調しているか、さもなくばネット右翼の様な人が自画自賛の幼稚な称揚とか自己愛の吐露をしているといった始末で、無意味である。特に同調的さえずりの無意味さといったら元ツイートと内容が同じなので情報価値はほぼ0だから、そういうのが溢れかえっている場であることを考えると、誰かの返信を読むのは基本的に時間の無駄だとみなしてもそれほど間違っていない。優れた批評というべき返信の割合が少ないので流すだけで一苦労だ。
 ツイッターをSNSに使うにしても、1.5億人が日間アクティブユーザー数らしく、その10倍くらいいるフェイスブックに母数が見劣りする様だ? そのうえ匿名・偽名が多いツイッター情報の信用性は低い。勿論、中には偽名を使ったよい意味で非常識で反社会的な批評があって面白いこともあるのだが。
 ツイッターの面白さがあるとしたら、それはニッチな言論、すきま的な例外の言論がたまに見つけられることかもしれない。そういう人は他の場所ではあまり見つけられない。いいかえるとツイッターは想像以上に同調圧力が弱い場なのだ。フォロー数にさえこだわらなければ、ある程度例外的なことがいえる。かつては見つけられた個人ブログは、アフィリエイター達の赤い海で検索上位にあまり出てこなくなってしまった。ツイッターのリツイートやいいねを辿ってその種の特殊な言論にたどり着く可能性のほうが今では高いのかもしれない。
 愚かさを愚かさとしてみることを簡単にできる人は愚かなのだろうか? 私はツイッターで他人を安易に愚かとみなすのが難しい(大抵の人は当人の脳で生きているだけで、いわゆる科学的信憑性に価値や信頼を置いていないし、そもそも主張する以前に深く物事を考えた試しがないのである)とわかったが、それは誰かの「単純な愚かさ」を一体何と捉え直したのだろう? 反証主義とか弁証法といった学問的思考の様式を程度こそあれ身につけている筈の人が、今度はツイッター上で宗教を一様に迷信とみなし悪し様に攻撃している場面を私はみた。これにも大いに失望させられた。誰のことか言わなくても分かるかもしれないが。その人はただの科学教徒だった。
 賢愚にも質がある。単純に全ての脳は違うということとは別に。「単純な愚かさ」を定義できれば、大抵のツイッターアカウントを無視できる様になるのだが。科学を相対化して考えた時、一体何を認識の誤り易さとみなせるのだろう? 質の高い賢さとは何か? 同類相憐れむ様に、成金にたかっているかねの亡者らは儲けの機会欲しさにそうしているか、同調すれば自分も金持ちになれると信じているのだろう。そして知らずしらず貧しさを侮蔑する偏見を身に着けていく。貧富と貴賎は、当然違う。この様に成金の認識は既に誤っている。そこには単純な愚かさがある。
 既に軽く示唆していることだが、「科学知識の精度」とか「科学的思考力」は賢さの一種ではあっても全てではない。これらの確かさが完璧でないのに加え、芸術、競技、商業、政治など科学に包括できない数多の賢さがあるからだ。複雑な賢さがより賢い。科学の賢さは単純すぎるのだ。極めて価値の高いツイートは、その種の複雑な賢さに基づいている。それは哲学的な賢さといえるかもしれない。そしてこの哲学的な賢さが真に賢いといえるのは、そこには定型性がなく、しかもあらゆる面から物事をまとめて検討するものだからだ。逆に俗受けするツイートは、哲学的ではない。ある偏見を強調している場合が殆どだ。逆に俗受けするツイートは、哲学的ではない。ある偏見を強調している場合が殆どだ。いわば殆どの人間は単純に愚かなのだろう。
 質の高いツイートは箴言的なもので、世界を縮約してあらわす。そして一部の脳に英知を与えるが、一般人は理解できない。英知自体に触れられる人自体が少ないのだろう。どんなツイートが愚かで他がそうでないかについては、単純で定型化した認知でははかりきれないのだろう。世間で高い学歴を示している学者のツイートを実際にみてみると、驚くほど稚拙でびっくりしてしまう。その人達は定型学習はできたかもしれないが、普段の思考は単純に愚かなのである。複数の賢さの体系を同時にのりこなし、しかもそれらを場面ごとにふさわしく使える知性が、最良の知性である。この意味で、「単純な愚かさ」は全ての場合に定型的な思考しか使えず、しかもその賢愚の体系が単一的ということになる。ばかの一つ覚えというやつだ。
 ツイッターに疲れるのはそういう単純に愚かなアカウントを見分けるのに手間がかかる為なのだろう。有名さやフォロワー数は、真の賢愚を見分けるのに何の役にも経たない。ツイートの質は哲学性によっているのだ。
 結論としては、ツイッターを有効利用したければ、フォローするアカウントのツイート内容が哲学的洞察という意味で比類ない必要がある。誤り易さをもっている限りそのアカウントは賢くない。数度以上、暗愚な発言がみられたらフォローしない方がよい。賢者が偶然でなく間違えることは少ない。