2019年2月8日

茂木健一郎氏のノーベル賞二重基準への一解釈

 茂木健一郎氏はツイッターの発言ではノーベル賞は最高の知性の保証ではない、その権威を有難がる日本のマスコミは田舎臭い(たぶん世間知らずと指摘したいのだろうが、地域差別用語を使ってしまっている)といっている。
(茂木氏は他にも「ダサい(田舎い)」などと俗語で日本のガラパゴス的独自性を腐す場面がよくあり、世間知らずと田舎らしさをほぼ同意のものと思い込んでいるのだろうことが推測される。現実には都会に野暮な世間知らずもおり、田舎に洗練された風習があったり世間知に長けた者もいるだろう)
 茂木氏は一方で、ツイッター上で、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を激賞したり、「シールズにノーベル平和賞を(与えるべきだ)」と述べている。
 つまり、彼は片方でノーベル賞を世間知らずの日本人しか特に有難がっていない権威だといいつつ、もう片方ではその賞を使って彼の反体制的感情を満足させてくれる人々を権威づけようとしている様に見える。これが第三者の目には二重基準に見えるのだが、彼の中では無矛盾か同居しているわけだ。
 茂木氏の脳内では、ノーベル賞の権威は特に最高のものではないにせよ、そこにある程度の権威は認めており、しかもその高すぎない権威は彼の反体制感情を補完する目的ならわざわざ推薦先になるほど価値のあるものらしい。こう解釈すれば、彼の一見、二重基準にみえる言動の中身は分析できる。