2019年2月7日

絵は理想を直接述べる為の装置である

絵は何かをまねてはいけない。絵はひたすら理想を述べるためにある。
 私は最初に油絵の具で描いた自画像、その後、今は入れないだろう福島原発の近くにある、海が見える崖の上の公園で部活のキャンプのとき描いた空の絵、また近所の大津港のスケッチ会で描いたブラマンク風の風景画、また同じ磐高美術部で会津の川で描いた絵などで、既にこのことは無意識に知っていた。私はその後、20年かけて気が遠くなるほど色々なことを学び、大変試行錯誤し、最初に見いだしていたものを今改めて手に取れる様になった。
 私は抽象画を描くという必然的な理論の裏づけをもっていなかったので、理想を色彩によって表明することができると気づきながらも、その色で形を模倣していた。形は絵にとって副次的要素でしかない。全く形がなくとも絵はできる。絵画は色彩現象である。形を抽象化すればするほど、平面化すればするほど、つまり要素を純粋に絵画的なものへ還元すればするほど、色というより本質的な要素を強調できる。
 では形とはなんだったのか? 形は、現実では光を反射する要素だ。三次元以上の次元を擬似的に模倣した幻想性を平面から排除すると、単なる幾何学的形態しか残らない。キュビズム(立体主義)から新造形主義への段階でこのことは既に歴史的に検証されたが、幻想性は現実現象の類比を用いた模倣的な要素でしかありえないのだ。形は絵にとっては、この幻想性を生じさせる為にしか使われていない。建築設計の透視図がいい例だ。形は絵画にとって擬似的で不純な要素である。
 アリストテレス『詩学』と真逆の立場に私は至った。しかも私の理想主義と呼ぶべき理論の方が、アリストテレスの模倣主義より絵画論としての正統性をもっているのは、写真登場以後の世界美術の流れとして確かの様だ。
 最も抽象度の高い絵画を探求することが、今日の私の画家としての課題だ。それは現実の模倣だった過去の美術史を、全く逆の方向へ進む勇気ある仕事である。幸運にもモンドリアンら抽象画の巨匠達が理論的な基礎を既に作ってくれていた。
 私の死後、人類は或る典雅な様式として理想的な絵が残されたのを知るだろう。勿論、私自身この考え方が完全に正しいとは思っていない。より正確にいえば、人類は常に進歩してきたのだから、理想主義ものりこえていかねばならないはずだ。もしそれができるなら、私もより正しい流れへ更に進むつもりだ。