2019年2月16日

経済の目的としての需給の完全一致は、市場全能説による私利の追求では果たせない

経済の本来の定義はそれが経世済民の略語であるよう、需給の完全一致をもたらしあらゆる人々が自らの欲しい物事を十分に手に入れられる様にする作業である。しかし資本主義者や自由至上主義者はこの本義を忘れ、自己利益の最大化が経済の目的としばしば思い込んでいる。彼らの信仰の根拠は、アダム・スミス流の見えざる手(『国富論』4編2章の意味で、或る個人の勤労価値を彼ら自身が最大化しようとする結果、それは彼ら自身が気づかぬ内に公共の利益を達成させるという文脈)なのだが、その手は限定的な一部の需給を効率化するものに過ぎなかった、というのが今日まで社会実験の結果わかったことだった。これを完全に実証したのが日本でのトリクルダウン理論の実践への反証的結果であり、金持ちを更に金持ちにしたところで貧しい者が豊かになりはしなかった。即ち市場は万能でなく、寧ろ政府等の公共性をもつ非営利組織の助けなしに、救貧すらままならなかった。これをアダム・スミスの見えざる手が国全体など人類集団の巨視的単位で否定されたという意味で、市場全能説の破綻、見えざる手の不完全性と名づける。いいかえれば自由市場はそれを極度に推進しても、金持ちをますます金持ちにし、貧者をますます貧者にするばかりで、経済の本義にもとる結果になる。
 市場全能説はしばしばより包括的な概念として市場原理主義ともいいかえられているが(George SorosがThe Crisis of Global Capitalism (1998)の中で用いたmarket fundamentalismの訳語として)、特にその考え方の中で私利の追求が公益を兼ねるのは全ての場合ではない、という観点を指して呼ぶことにする。負の外部性や、法定通貨をめぐるゼロサムゲーム性、或いは所得や資産、人間関係・文化・社会資本等に渡る貧富の格差がハンディキャップなしで多かれ少なかれ世代間に固定化する場合(特に皇室を含む世襲の階級やガラスの天井等の差別)を考えれば、この説の間違いはあまた実証されている。つまり公共福祉のなんらかの合理化(防衛機制の意味ではなく、ここでは制度的な合理性を意味する)による充実なしには、経済本来の目的である需給の完全一致は不可能である。