2019年2月12日

神的なものとは道徳性である

自分の中に神的視野や神慮、つまり人間としての目線を超えた目線があるというのは感覚的には真実なのだが、それを導いたのはRPG、特にドラゴンクエストを小学校中~高学年に夢中で遊んだ経験の様に思う。少なくとも自分にとって、その神の様な眼差しの精度をより高めることが人生の目的の様に思う。のちにアリストテレスが確か『ニコマコス倫理学』で、観想についての意見として同じことを述べているのを私は知った。彼は神的なものが人の中にあるなら、それにできるだけ長く留まるのが人生の目的だと考えていた。哲学的生活とは、彼によれば理性による観想の生活である。自分は高校生の時、たまたま美術の授業や美術教師に直感的な興味を感じ、きょうだいも美術大学に進学していたのでその道を辿って今に至る。がアリストテレスの意見が正しければ、これ自体遠回りだったのかもしれない。神になるということは、理性の認知領域を拡張することでしかないのかもしれない。美術は何かの手段であり、アリストテレスのいう形相の中に理想の現実態をみいだす活動である。ではその作品は最高善の姿でありうるだろうか?
 なぜ神的なものが重要かといえば、我々の肉体は亡び去るし、人間界では不条理なことが多すぎるので、そこに適応などできないからだ。神の世界があるなら、少なくとも私はすぐそこに入って人間をやめるだろう。アリストテレスが前提としていた通りもしそれがあるなら、だが。ドーキンス流の無神論に一定の理を認めるとして、では我々が神的なものと呼んできたのは一体なんのことだったのか。それは人間の中にある非獣的な要素である。理性と呼ばれてきた特徴はその代表的なものだったが、多重知能仮説が正しければ知能自体に多岐にわたる進化があるだけで、特定の理性だけがあるのではない。たとえば芸術的知能も理性と呼ばれてきた特徴を含んでいる。
 結局、我々が神的なものに到達したければ、知能の発達の中にある既存の獣に見られない特徴を悉く探りながら、しかも最善の統合性を身に着けねばならないことになる。万物の霊長との自認がただの誇大妄想でなければ、人たるものの最高の長所が、この神らしさにあるというのがまちがいないだろう。
 茂木健一郎氏がブログで「全知の質感(クオリア)はそれ自体として立ち上がるもので、必ずしも全知そのものではない」と述べていた。端的にいえば全知のほぼ全ては妄想なわけだ。可能な神らしさは博学さに留まるだろうし、それもどれほど抽象化されていても、限定的かつ選択的なものでしかない。
 では私が探求すべき神性とは何か? 一体何をあらゆる学習可能性の中から厳選し、どの様に生きればその最高度を達せられるのか。
 RPGは箱庭のデジタル要素全てを、自らが理解できるプログラム言語の範囲で操作できる。だからゲーム作家には神の比喩として創造者の名義が鳥嶋和彦氏によって使われた。私が子供の頃感心したのはドラゴンクエストやマザー2などRPGの世界の中全てが或る道徳的秩序でまとめられていることだったのだろう。ゲームデザイナーとして堀井雄二氏や糸井重里氏、FFシリーズなら坂口博信氏らは神が業を操作する様な役割を果たしていた。そして全体としてその世界は或る調和をもっていた。悪しき者に罰を与え、善き者に賞を与えるといった勧善懲悪の作劇法(ドラマツルギー)が彼らの作中では通底されているのだが、主人公を自らが演じ、主導的な役割を果たさなければその世界の浄化(カタルシス)は果たされない。
 現実の世界は必ずしも彼らの作品の様にできてはいない。それは神の役目をもつ最高の良識が業の全てを操作していないからだ。その種の神通力は個々人の信念に任されている。しかも権力が弱い時、良識的個人が勧善懲悪を実行するには時間がかかってしまう。時効がきて復讐が果たされないこともある。
 私が手に入れたいのは、実際のところ、この神通力の様なもの、いいかえれば勧善懲悪をこの世の業のできるだけ全てにきちんと果たす力なのかもしれない。恐らくそれは現実には、政治権力ということになるのかもしれない。元も子もない結論だし、哲人王のプラトン思想にもどってしまうだけになるが。現実政治で力をもつ為には、現状の制度では民衆から信望を受けねばならないし、私にその種の才能は恐らくないだろう。私は通俗的大衆を理解する能力が低いし、その様な卑俗さの学習を元々好んでいないのだ。
 だからRPGとか、芸術作品の中で、箱庭的に理想世界を実現する方が手っ取り早いことになる。もし私に機会があって、最高権力者としての国連事務総長になれればそれに越したことはなく、自らの力を使って強国の軍事的侵略を諫め或いは罰したり、恵まれないが良心をもつ人々の善果に次々報いていけばいいのかもしれない。少なくともこれが不可能なら、芸術作品の中で同じことを仮想的に実現するだけだが。少なくともこれが不可能なら、芸術作品の中で同じことを仮想的に実現するだけだが。
 神らしさとは、自分が子供の頃に先人から薫陶を受け、人の業を道徳的に秩序づけたいという欲求がその中で最高のものなのかもしれない。哲学の世界は、善悪の判定を行う為にますます複雑で思慮深い定義を用いるよう進歩していく。いいかえれば哲学自体を正しく続けるだけでも遠からず業を正す起因をつくることはできる。アリストテレスが自認していた理論的役割がこれにあたる。哲学、わけても倫理哲学は総合性において最後尾にあたる諸学の王なので、哲人王が現実の権力をもっていなくとも神的な役割を果たすことは実はできるし、アリストテレスのいう最も神に近い仕事、最も精神的な仕事は人間としての肉体を労することが最少な純粋に理論的な仕事といえる。RPGなどのコンピューターゲームも、デジタル絵画も、実はプログラム言語の連なりだから、表現方式が違うだけで理論的なものともいえる。しかし重要なのは倫理性だ。そこに表現された業の秩序が完全であればあるほど、模範としてのよい影響を社会に対して持つといえるだろう。国連事務総長となって演説するのも、一哲学者として、或いは一画家、一作家として倫理を語るのも、形式こそ違えど実は内容の優れ方が大事なだけといえる。神的なものがより多く含まれている理論であればこそ、業の操作者として創造的であり得る。
 私が生涯を懸けて追い求め、部分的にしか実現してこなかった神らしさの正体は、以上のことで少しは解明できた。それは物理的因果を含む倫理的な業の秩序を、より調和のとれた善美な配列にするという理論的な仕事である。いいかえれば世界をより善い秩序につくることである。現実に全知全能全徳の神に到達できないとして、一歩でもその当為に近づこうと私は全力を尽くしてきているが、これまでわかった限りでは、法という共通善を通じ普遍的な善の一部を実現できるので、世界を倫理的により善い場所にするという文明人の理想は、程度あれ徐々に叶うということだ。我々がすべきなのは優れた倫理的秩序を理論化し、或いはなんらかの形で表現し、それを社会に伝える中で、法に生かそうとすることだ。人を超えた神に近い役割があるとして、その種の業の作り手になることだといえる。神性を人間化したものは精神性と呼ばれるが、少なくとも神が人間の善悪を超えた性質をもっていて、また賞罰に及ぶ人の業を支配するものであるからには、博学度としての哲学的能力、すなわち道徳性が高ければ高いほど、精神的威力によって人間界を実質的に支配し得るのだろう。