この主張(はすみとしこ氏のツイート。筆者が大約すると、稲作という全体主義プロジェクトで集団行動できない人たちの成れの果てが江戸時代以前のエタ・ヒニンと呼ばれる人々だったという主張)の根拠はよくわからない(書いていない)のでただの意見なのかもしれないけど、単なる過去に存在した被差別的身分に対する論評だし、なんで通報したい人がいるのかがよくわからない。過去の身分を論評するのはその人の言論の自由であって、誰のことも差別してないと思うのだが。
過去に書いた漫画のことで、この論評(某被差別身分が全体主義から排除された者だったという意見)をすなわち誤りだと決めつけるわけにはいかないし、実際今より固定的な階級社会ではそうだったかもしれない。全体主義的迫害の犠牲者が、むしろ被差別階級だったかも、というのは興味深い観点だ。
個人主義が日本ではまだ少数派だというのは、漱石『私の個人主義』で人に知られない淋しさも潜んでいると書いてる様にその通り、いまだにそうなのでは? 全体主義への弾劾の目的で書かれた過去の身分への、どちらかといえば全体の悪意の犠牲者としての新たに肯定的な観点を提出している分析でしょう?
深い意味で、嘗ての日本国内での被差別階級の人達の方が、全体主義に反していて正当な意味での近代的個人性(自己の良心とか、集団的差別への抵抗心など)をもっていたかもしれず、そういう目線で過去の日本を見返すと、全体主義的集団の方がかえって罪深かったのだろう、と考え直すきっかけになる。
ひるがえって現代の日本でも、少数民族とか含め、マスコミやネット世論といった場の空気と本当は異なる意見をもつただの個人(実は全員だ)への弾圧が激しくみられるし、GHQがもってきた基本的人権以前から、今に至るまで全体主義の負の面は激しくありますよね。
そもそもその種の全体主義は、天皇が大和王朝を作ってから帝国主義的少数派弾圧としてはじまっているようでもあり、日本の先住権を持つ全ての人々に対して渡来人達の王朝が行った激しい侵略行為は、沖縄県民世論を抑圧しつつ辺野古埋め立てするなどいまだに続いているといえる。
被差別側から日本の全体主義の罪業を、人権意識に基づいて告発するという姿勢は、もしあるなら非常に立派なことだと思います。江戸時代以前の被差別民とされていた方がたにも名誉を回復するきっかけになりますし、現代で差別を受けている人々にもそれは人権再獲得の勇気を与えることになると思います。
NHKのドラマにもなった『アテルイ伝』などのよう、蝦夷と呼ばれ大和王権から侵略や一方的弾圧を受けた、本来の先住権を持つ日本人側から、中央史観とされる皇国史観を批評し再検討するという作品もあり、被差別側からの目線というのは人権にとってとても大事なものですよ。勿論全体主義の批判もね。
徳川幕府の一端を担った水戸学は、むしろ今日の象徴天皇に至る皇室の復権をはかる日本独自の思想でした。したがって江戸時代を通じ朝廷の権威を高めたのは、むしろ徳川幕府のうち、水戸徳川家を中心とした御三家の側で、幕末にみられたよう朝廷を軽視していたのはそれ以外の大名のほうでしたね。
天狗党の方々は、幕末、外国船が日本に押し寄せ、近くアヘン戦争などもあって周辺諸国がつぎつぎ植民地化の餌食になっている危機的状況の中、むしろ不平等条約を大老が独断で勅許するなど、徳川宗家は征夷大将軍の職責を果たせないと判断した志士が、自力で攘夷を果たす目的で集団決起した自警団です。
彼らは元寇に際し鎌倉時代の日本人達がそうしたよう、外国人の侵略を何とか防ごうと様々な身分の人から成り、協調して行動しました。ところが彼らが補佐するはずの幕府から弾圧を受けた為、天皇に直接、日本防衛(攘夷)の許可を得ようと京都まで従軍しましたが、逆に敦賀でほぼ全数が処刑されました。
何百人もの日本を守りたいと願う市民軍が、女子供を含む当時の一般国民も混じっていたのですが、江戸時代の中央政府であるところの幕府から弾圧され、無残に処刑されたというのは日本史上でも最大の悲劇の一つだろうと私は思う。天狗党は日本防衛を目的に自主的に集団行動をした義勇軍の人々でした。
桓武天皇の母は百済の人であると『続日本紀』にあると今上天皇も述べている通り、どちらかといえば弥生時代当時の中国・朝鮮半島から流れ着いてきた人たちは西日本を中心とした一帯に定着し、その中から今日の天皇にいたる大和王朝も現れた、というのが史実でしょう。
私たちは単なる人類の食事のため牛とか豚とか、鳥とか魚とか、問題になっているクジラとかイルカも含め日々かなりの動物を殺めていますし、現実にたくさんの畜産業者の方々が、日本人達の食生活を支えています。このことは動物のためには痛みであるし、ほふり方というのはもっと苦痛を減らすべきです。
はすみさんも全体主義がそこから排除した人達を被差別階級におしこめた、という意見ではないですか? その人達を一箇所に集めて、その中では排除された人達なりの集団性はあったのでしょうが、もし全体主義秩序からの排除がことの真実なら、被差別民が全体主義の犠牲者というのは変わらない。
新撰組の初代筆頭局長(創始者)である芹沢鴨は、尊皇攘夷を主義とする徳川御三家の水戸藩の出ですが、黒船来航直後に水長同盟(成破の盟約)というものが結ばれており、水戸藩と長州藩はそれ以前、水戸弘道館に留学した吉田松陰などを通じ尊攘論を共有した、幕政改革の同盟関係がありました。
したがって芹沢が指導者を務めていた段階での新撰組は、その一部の志士が、長州と協調して幕政改革にあたる役割を認識していたかもしれません。西本願寺に彼らが逗留していたことと関係があるかはわかりませんが。