Goodbye human, I'll back to God. -- myself
日本の教育の最大の問題点が減点法にあるのが今分かった。自分のツイッタープロフィールに書いてた英単語のスペルに簡単なケアレスミスが見つかって、こういうので英語使うのをためらうんだなと。羞恥心を罰刺激とした公教育が、日本人の英語力が低く、揚げ足とりばかりする最大の原因だと悟った。日本人全般を反面教師にすると、英語の少々の間違いで生じる、義務教育からしつけられてきた無意識の羞恥心を全く無視するよう、自分を真逆の方向に思いっきり引っ張らないといけない。非母語でミスしないことを最優先すると、多言語話者には遥か遠のく。伝達可能性に集中しないといけない。
文科省の公教育は非実用的な文法学者になる為にはよかったかもしれないが、自分が正文法(学部で一応満点程度のもの)でアメリカの中学生少女と会話してたら、そんな使い方しないといわれた。たぶん正文法は学問的なものでしかなく、日用的ではないのだろう。減点法も文法中心の学び方も実用的でない。
日本語圏は縮小中の上、サブカル地獄で純粋芸術の人間は生き残れないが、英語圏に参加するのに言語障壁が高すぎる。村上隆や奈良美智らはうまくその障壁をのりこえたが、自分は両言語圏の間で、どちらにも商売として着地できず引き裂かれている。日本には純粋芸術の市場、前衛美術の市場というものは先ず基本的に皆無だと思う。辛うじてあるのは公募展作家の写実画市場とサブカルではないか。自分は両方とも試してみたが、自分の知能だと余りに幼稚な作業に感じて結局無理だった。自分より遥かに愚かな相手へ無理に合わせる苦悩は凄まじい。
村上隆が『芸術起業論』でいっていることは、結局、欧米美術市場に適合する作風で国内の純粋美術を輸出産業化しようという試みであって、カイカイキキの人達は部分的に成功したが、一般化したわけではない。彼がやっている輸出業の本質は岡倉天心が五浦派の中で既に試していたことの焼き直しでもある。バブルラップ展で村上は戦後美術を体系化しつつ整理し、もの派とスーパーフラットの間に位置した人々をバブルラップと命名した。それはこの間の諸美術を欧米側に新商品として紹介する機能を潜在的に意味している。
自分はスーパーフラット以後の世界を既に探求してきたのだが、同時に、村上らスーパーフラット主義者がもっていた中間芸術的・商業的側面をどう扱えばいいか決めあぐねている。清貧な芸術家像を国内前衛画家は背負わされる。一部のサブカルが大儲けし大衆芸術が主流化しても、自分は馬鹿になれない。単に欧米、特に米英美術界で地位を確立したからといって、それが自分の本来の仕事だと感じない。日本人の名誉を高めたとかいうどうでもいい様な終わり。天皇だの右翼だの僕を全然助けなかった人、サブカルに大金を貢いでいた日本国民全般に自分の命を利用される到着点で終わりたいとも、全く思わない。
僕の元来の仕事は、自分が世界史の中で未来永劫、最高の芸術家として、人類が残し得た全作品の中で最も優れた作品を残すことではないかと思う。自分の中にはその種の使命が宿っていて、自分を操っている様な感じもする。
海辺を散歩していたりすると、たまにそういう自分を超えた力が自分の中で出たがっているのがわかる。そしてその神の様なものが、自分に何かを絶えず表現させていて、自分はただその奔流にしたがっているだけだ。僕は芸術家以外に成れなかった。それは神らしきものが自分の中で自分を操っているからだ。正確にいいあらわせているかは怪しいが、確かにその種のことが自分の中であるのだ。自分は無意識に何かを表現させられていて、それは自分の力を超えているので、自分の肉体の方がついていけていない。だから常に技術を高めたり、知識を補強したりしないと、言いたいことがいえない様な感じがする。「道同じからざれば、相為に謀らず」(『論語』衛霊公第十五40)と孔子はいっていた様だが、自分と村上隆も多分、志自体が違うのではないかと感じる。自分は狩野派みたいなものを残しそれを日本美術の伝統にするという様な、僕の目から見れば世俗的な目的はない。単に世界で最も優れた絵が見たいのだ。
自分が今言っていることは傲慢に聞こえるかもしれないが、これは僕自身の声というより、自分の中にいる神の様なものが僕の肉体を使って語らせているみたいなものなのだ。僕個人の主観を超えた話なのだ。僕がいてもいなくても、ミューズ的なものが、同じことを誰かにさせ、いわせたのではないかと思う。
多分、ジェフ・クーンズや村上隆、ダミアン・ハーストといったキッチュな商品美術の作り手らがミューズ(美の女神)本来の高貴さをけがしているということも、自分が純粋美術界に呼ばれている原因の一つだと思う。自分は一時期建築の研究を本格的にし、建築家の方面に進んでいたが、行く手を阻まれた。もともと自分の中に神的なものが宿っているというのは確かにそうだった。それで世間の人達と自分は全然違うとずっと感じてきて、人間界からできるだけ離れて暮らしてきたのだから。
ただその神的なものを仮にギリシアの伝統に倣ってミューズと置くと、彼女は自分を或る方向に引っ張っている。自分があらぬ方に行くと、彼女は術策を弄してその行く手を阻むことが多い。ただの気のせいで、単なる妄想というか後認知バイアスかもしれないが。何度もそういうことはあった様でもある。詳しくは別のところで自叙伝みたいなのに書こうと思うけど。
まあなんでもいいが、とにかく自分は日本圏にも欧米圏にも全然属していないというか、多分両方とも自分本来の居場所ではないんだなと思う。村上隆は藤田嗣治を村上自身みたいだ、どうしたらああならずに済むか考えたと書いてたけど、自分はそれとも又違う。人間界が自分の世界とは思えないのだ。なぜ人間界が自分が属する世界に感じないかというと、そこで生きている人達が動物か何か、低次元な存在に見えて、全然親しめないのである。「なんでこの人達はこんな愚かなことをしているんだろう」としか見えないのだ。ダニング・クルーガー効果については知っているが、実際そう見えるのである。自分が神の世界に参加するきっかけというか、ボタンがあったら今すぐ押すだろう。ためらいなく。自分は人間界には先ず全く興味がない。この肉体で人間風に生まれてきているから、仕方なく道徳なども学んだり考えてきたが、人間界が今日なくなろうと全く悲嘆しないだろう。僕の世界ではないんだから。
藤田や村上の苦悩なんて、僕が抱えている人間界への本質的な違和感から比べたら本当に人間的な次元のものだ。欧米と日本の文化的橋つなぎなんて簡単な話で、両方に通じることをなんかすればいいだけでしょう。
自分は人間界に通じる橋の様なのが最初から殆どなくて、ミューズみたいなのが神の世界の方に常に呼んでいるのである。まあその呼ばれている方の世界というのは俗界の逆の方角で、素直にそっちに進むと世間と没交渉になって、通じる要素すらなくなるのではないかと思う。純粋芸術界は、確かにそのミューズの世界と人間界をつなぐ橋がかかっているので、自分は美という通路を通って両者を毎日行き来し、情報を伝えているわけだけど、伝わっているかは怪しい。人間界の俗語は自分には縁が遠いし、俗界の好む悪趣味も自分にはうまく使えないからだ。
で、ここで何がいいたいかというと、自分はこれまでその人間界にミューズの世界(多分、プラトンでいえばイデア界、理想の世界と言い換えられる)の情報を橋渡しするという役割をしてきたのだけど、もう疲れたからやめようと思っている。しかもミューズ自身がもうこっちきたら? といっているのだ。プラトンの表現を使うと、自分がこれまでやってきた仕事は、人間(可死的なもの)を神々(永遠なもの)へつなぐエロスの仕事だったといえるだろう。が、どれだけやっても、少なくとも日本人はミューズの属する神々の世界(理想の世界)の方に来る気もなければ関心もなく、動物みたいなものだから最初から神々の方に近づくのすら無理だし、作業全体が無意味なのである。
まあこの説明の仕方で十分言い得ているかは分からないが、大体そういうことなので、僕はもう十分、人間界、少なくとも日本人達に向けてやるべき仕事はやったと思う。今後はもっとそのミューズのいうことに素直に従って生きるつもりなので、動物的な日本人達に伝えることは少なくなるかもしれないが。自分は最低でもそのエロス的仕事を古典的な正格にのっとって表現しようと、まあ芸術家として実にまっとうな方法でやってきたので、美術の正統的理解がある人なら必ず分かるようにしてきた。これは間違いない筈だ。だから伝わらないってのは杞憂で、単に大衆的な世界から離れますよといってるんだろう。別に外人に伝わる言語で表現しなくても、絵とか音楽とか建築なら普通に通じるわけだから、日本語話者の母数が少ないので高尚なことが分かる人が少ない問題というのは、言語表現にしかないといえる。その言語芸術の中で、僕はもう大衆向けのことはやらない。疲れたのだ。無意味だった。それだけのこと。要するに哲学的な探求をこれまでより遥かに容赦なくやるので、日本人の一般人には全然分からない様なことばかり書く様になると思うけど(そもそも最大で数人しか読んでないと思うが)、それはもう僕が悪いのではなく日本人全般が馬鹿なせいなんだから僕の責任ではない。英訳できないかもしれないが(誰も興味がないまま捨て置かれる可能性の方が高い)、これも僕の責任ではない。なぜなら僕はミューズに従う方が僕本来の使命だと分かっているからで、一般人とか世間に通じる様な表現を使うのはもっと人間界に近い人がやればいいからだ。天職の違いだ。