2019年2月21日

学歴差別する愚者を見分ける為に肩書きは低く保つとよい

愚者は知識や実績そのものを評価できないので、肩書きが立派ならその人も信頼できると考えて済ませている。そして並の学歴(日本では学位より学閥が幅を利かせている。受験戦争時代の名残で、入試難易度が学歴と考えられている)の人間を殊更賞賛し、無駄に盛り立てて生きている。或いは平伏し、後光を勝手につくりあげ、馬鹿を崇めている。もっと酷い場合、学歴だけが立派だが人格的に最悪の人物(私はこういう人間をアメーバピグという偽名SNSや、匿名BBSの2ch(5ch)、ツイッター等で無数にみた)とか、サイコパスとかダークトライアドとかを、人格的に優れている人より遥かに尊敬さえしている。その悪性者自身、意図的にこの種の愚者の習性を悪用している。
 結局、学歴はこの種の悪用が日本では普くみられるので既に公害そのものである。自分は疾うにそのことには気づいていたので、できたら表面的な学歴、つまり肩書きを実力より意図的に下げようと考えた。そして実際にそうした結果、多くの愚者を見分けられるとわかった。愚物は知力自体をもっていないので肩書きだけを見て賢愚を判断しており、その種の判定をする人間は公然と差別をしてくることが実に多いし、そうでなくとも私的に痴愚を曝して恥じていない。学歴主義者は、肩書きが自分の賢さを公的に保障しているのでどんな蛮行をしても自分の地位には変化がないと考えているらしい。派手な肩書きを避けることにはこの種の愚物と同類にならないという以前に、愚者を見分ける装置となることをここに記しておく。
 勿論、学ぶことや知識そのものが無用では全くない。それが高ければ高いほど、肩書きに見合わない連中を見分けられるし、差別してくる愚者については最初からすぐ気づける様になる。両者の乖離が、知恵高く生きるのに、現代日本の環境では有益なのだ。実際、少数ながら真に賢いと呼べる人物はいて、その様な人々はいうまでもなく学歴差別の様な単純な偏見をもってはいない。単に知識や知力を見分けて世渡りしている。だから肩書きとしての学歴の低さはそういう人物を簡単に見分けられる上に、一般人の与える後光という幻想への過剰評価からきた傲慢さを最初から避けられる。実際、日本国内では東大・京大閥、及び東北大閥の連中にこの種の傲慢さが甚だ見られる。恐らくそれが学風になってしまっているのだろう。その他の愚者も、大学時代に遊んでいて陸に学ばなかった者ほど、肩書きだけを頼りに人を差別しているので、見分けがつくだろう。