仏教でいう無我は、脳科学でいう志向的な感覚質(クオリア)の抽象性のことでしょう。抽象思考は高次認知(メタ認知)を通じ、状況の客観視に役立つ意識の系統的発展だったのでしょう。客観性は自己を感覚的対象に対し相対化することで、より社会的な行動、主に利他性を鼓舞し易かったのだと思います。
資本主義は相利性の報酬としての利益追求を人類の一部ができるようにしました。しかし意識の抽象性(志向的感覚質の練度)は元来、サイコパシーをもった人が有利になる、利己的な社会の為に使われてきた訳では無いように思います。文明は利他性の体系なので、究極では自己犠牲の為なんじゃないですか。