偽善は、善の前段階なのかもしれない。向社会性は、悪(幼児のよう単に利己的な状態)、偽善(自分の為に利他的な段階)、善(しばしば自分になんの得もないが単に利他的な段階)、慈善(自分に損でも利他的な段階)というように発展するのかもしれない。
善意で利他行動をとる人も、良心の満足は得ているだろう。あるいは偽善すべてのなかで、良心の満足の為に行う部分を、善とよんでいるのかもしれない。だから偽善の一部が善でしかないのかもしれない。我々は良心の満足を目的にする偽善を、善といっているのかもしれない。