2019年1月31日

偽善の考察

偽善を自分の為にする行為、善を他人の為にする行為と定義すると、偽善は、良心の満足を目的に行うものの場合、その程度が高くなっていくと、ある時点からは善のほうに転化するのかもしれない。実際、良心の満足を追求する偽善者は次第に他人の為に行動しているとしかいえない状態になって、その時点ではもう良心の満足といえば人助けと一致しているのだから偽善の究極状態が、自己犠牲である。自己犠牲を良心の満足の為だけに行うと、完全な慈善と一致する。
 偽善は、善の前段階なのかもしれない。向社会性は、悪(幼児のよう単に利己的な状態)、偽善(自分の為に利他的な段階)、善(しばしば自分になんの得もないが単に利他的な段階)、慈善(自分に損でも利他的な段階)というように発展するのかもしれない。 
 善意で利他行動をとる人も、良心の満足は得ているだろう。あるいは偽善すべてのなかで、良心の満足の為に行う部分を、善とよんでいるのかもしれない。だから偽善の一部が善でしかないのかもしれない。我々は良心の満足を目的にする偽善を、善といっているのかもしれない。