人は神になるよう生きるべきであり、それが哺乳類としての人類にとっての理想だ。神らしさは全知全能を含む全徳の比喩で、要するに知能の高さをいいかえたものだった。
神性に個別さがあるという意見は、普遍的な全徳を求める方がより上位の神性という意見で持ち上げられる(止揚できる)。
幸福が徳に応じて得られる快楽なのは確かだから、全徳の追求は同時に幸福追求でもある。
人類は基本的に哺乳類の一種なので、そこでみられる行いは殆どが本能に即している。逆に神聖さを帯びている行いは、この本能からの離脱の度合いとも言え、特に利他性を己を含む公益に該当させる全利性がこれにあたる。少なくとも利他性一般は互恵的でない限り人類の理性に特徴のある振る舞いだが、中でもその永続性が全利の種別である。神々しいと我々が感じる性質はこの点に由来している。
アリストテレスはテオーリア(観想)、現代の該当概念に即せば理論が神的活動と考えた。できるだけテオーリアの暮らしを延長させることが幸福と一致すると『二コマコス倫理学』で彼は言う。私は上述の思考から、彼のいう観想の中でも特に全徳さを全利に用いる様な理論性がそれにあたると思う。いいかえると、最も神的な生活とはやはり哲学的生活ではあるが、その中でも公益度の高い思慮がそれである。およそ全人類の活動、その他生物の活動を含む公益性とは世界政治であり、そこには一切の知識や技が含まれている。つまり後自然学、社会学、形而上学の諸分野で最も後に来るのは政治哲学である。修身・斉家・治国・平天下という儒家の段階論は、倫理学が個人から家族へ、家族から国家へ、国家から国際社会へと段階を経て発展するという原則を端的にまとめていた。最も神的な個人はこれまで東洋の聖人君子らが読書人や知識人としてそうしてきたよう政治哲学を通じ天下国家はどうあるべきか、という普遍道徳を考えあらわすのが最終段階である。勿論、重要なのはその中身で、最も公益度の高い考えがすなわち人間界にあって可能な範囲の神性である。