2019年1月18日

社交について

社交の幸福は全くの虚妄だとミル(『ミル自伝』)やパスカル(『パンセ』)、ゴータマ(『ダンマパダ』)は気づいていた。
 私も彼らの意見は知っていたし私自身もそう思っていたが、社交性を研究したり社交的知能を高める目的でSNSを使ってみたことがあった。結果はやはり同じだった。そこで俗受けしているのは品性が低い人や陸でもない連中だったし、反面教師としての参考にしかならなかった。知的な議論がしたければ社交界に出回るべきではない。そこで立派な友人を見つけることも先ず不可能に近く、あるのは性的な関係を結びたがっている下卑た人間達から受ける数多の侮辱や、二度と思い出したくない様な無礼な目にあう必然性くらいだ。勿論、無制限な社交の目的は性にあるだけなので、これは他の哺乳類と変わらない。究極的に性的快楽にしか社交界に目的はないのである。
 はっきりしているのは、あなたに特定の関心のある分野があるか、もしくは一般教養を身につけたいと願っている場合、その領域の専門性を極めたいと思っているごく少数の人を見つけ彼らに限ってつきあうべきということだ。そういう人は社交場とか通常の広場空間では先ずお目にかかれない。この理由に限って同学の士、同好の士がつどう学園は有益だ。勿論一流の人間がそこにいるとは限らない。人類全体でみてもその総数に含まれる専門分化の余力は然程あるわけでもないらしく、もしあなたの才覚と努力が十分なら容易に同時代の中で傑出してしまうだろうから結局は、社交自体が害が大きく益の少ないものと認識することになるだろう。
 一流以上の知識人や聖人が身を安全に処するため交際する範囲は自然と最少となる。逆に交際の範囲が広いのは俗物の証拠でありうる。このことは単に知識として知っているのと経験として理解しているのとでかなりの差があるが真実だ。従ってこの知識を事前に知っていた人は社交界から足を洗うのがより早くなるか、そもそも近寄りもしないという意味でやはり有益な情報だ。