2019年1月9日

保守について

保守とは怠惰と無能のいいかえだ。
 保守主義者は、過去が変化しないので新たな状況に何もしないで済むと思っているのだ。この意味で彼らは妄想に住んでいる。未来は常に変化し続け、現状をよりよく変えない限りそこに適応的ではありえない。
 我々には慣行という癖があるので、伝統的価値は誰もに分かり易い(伝統に訴える論証)。大衆迎合主義(populism)と保守には帰一とする卑しい目的がある。要するに人々を馬鹿にし、詐欺によって時代遅れな不正権力を維持しようというだけなのだ。
 古きよき価値が破壊されていく事を悲しむ人は一見良識的なようで、その悲劇性はしばしば同情の涙を誘うが、自然が万物を流転させているのと同様、そこにあった良識は新たな良識に取って代わられていく。懐古趣味や復興として古きよき価値の一部は保存されるが、我々は二度とその時代にもどれない。つまり保守性は完全に不可能である。辛うじてできるのは現状に役立つ過去の知恵を探し出す事だけだ。それは保守主義ではなく、単に温故知新という史家的態度である。大津浜事件を受けた水戸学の尊攘論が中国春秋時代における状況解決策の援用でありながら、日本では江戸時代末期の世界史の中で脱植民地主義を目指す当時の全国統一革命理論であったよう(結果、この理念を吉田松陰が改悪し、欧米模倣の植民地主義や帝国主義へ堕落させてしまったのだが)、復古論は新たな状況に対する換骨奪胎を意味し、退行的であるべきではない。そして復古は、内容が単なる冗談でなければその時点で進歩的たるべきなのだから、保守というより寧ろ革新の一部である。
 選択眼が劣っている人は、或る要素から悪い物を残し良い物を捨ててしまう。また悪い物を再興・維持し、良い物を無視する。今と近未来のあらゆる真新しい要素群からの選択だけでなく、復古もまた現状の批判的再考なのだから、常に過ち多き変化をくり返してきた必ずしも理想的でない伝統の中で、新たなよき要素も古き悪しき要素も含めた現状維持を目指す保守は永遠に、反社会的分子たらざるを得ないだろう。