金銭的価値が芸術的価値にすりかわったきっかけの第一が美術競売の隆盛だった。競売会社は言わばやくざな画商であり、二次市場で画家・彫刻家らに何一つ還元せずぼろ儲けしてきている。流用が流行した通俗芸術以後の後近代美術市場は、作家自体が競売と同じ事をしている。日本美術の中でも俵屋宗達、尾形光琳らは言うまでもなく、雪舟、雪村らが各モチーフの引用や換骨奪胎、脱構築、再解釈を行ってきたが、流用はほぼ同時代の二次著作物の範囲でこれらを行っている。
あたかも高値で流通する事が芸術的価値であるかの様に、一般大衆も騙す詐欺会社。そこに無批判に乗っかる自称芸術愛好家と俗物。バンクシーはこの様な人々を揶揄する目的で公開裁断したキャンバスを半分残した事で、二次市場を寧ろ活性化している。つまり単なる猿芝居なのだ。尤も全てを裁断しても結果は同じだったろう。
独創性への固い信仰はイタリア・ルネサンスの美術家や印象派以後の近代画家らが目指していた何らかの価値づけによっている。前者は豪商の庇護を背景にしたキリスト教精神の美化、後者はボザールや公募展ギルドと一体化したフランスの古典主義派閥から排除された若者らの青い海。美術史を記述する者は、グリーンバーグも例外でなく、前衛性として最初の目立った開拓者を記録する鼓舞に駆られる。彼らはしばしば最初のペンギンを独創性と混同しているが、前衛性と独創性は異なる2つの要素だ。一方、成功した商業性も単なる芸術の一要素でしかない。ディズニーや宮崎駿の位置づけに困惑しているか、正統な美術史から除外しようとする美術史家は、村上隆のDOB君が流用している通俗的聖像を正しく読者に説明できない。
金銭的価値を価値尺度として使う美術史家は、一般大衆と殆ど変わらない物の見方しかできていないし、そこに前衛性や独創性という伝統的美術概念はない。流用芸術の馬鹿らしさや退行性を風刺する目的でしか批評できない立場、いいかえればプラトンのいう絵画の模倣性にもどる偽物という位置づけでしか美術を評せない立場は、要は何も学んでいない子供と同じだ。当然、投機商品としての美術の値段を要素として含みながらもそれと全く異なる批評性が、芸術的価値の定義なのだ。