2018年11月20日

情報量の価値

単に情報量をます為に我々は生きている訳ではない。では、情報産業の価値とは何なのか。有用性の高い情報を生み出す為?
 世界を縮約して表現する情報を、我々は思考のネゲントロピーをますべく選好する。情報産業にできる最高の価値の提供もそこに求まるとすれば、大衆的情報、人気のある情報と、知的な情報に違いがあるのはなぜなのか。量的功利主義的な情報は、質的なそれに劣る?
 賢者にとっての有用さが愚者にとってのそれではない。情報量についてもそうなら、数学的科学の様な単純な原理に則って構築される体系が、基本的規則を知らない人に分かりづらく感じるのはなぜなのか。わかる為に前提とされる知識が少ないほど情報量が大きいとすれば、喧伝と専門性はなぜ違うのか。
 専門性の高い情報は、或る分野に体系的知識をもつ個人にとってネゲントロピーが大きい。この事の特殊性は、外部者にしばしば賢さと誤認される。賢さというよりそれを好んでいる個人にとっては有用性の選好でしかない。
 賢愚の差は、客体的には、基本としてこの様に認知されている。しかもある種の個人は、自分に理解できない体系をもつ専門性を愚かさとしか認知していないが、これはソクラテスの時代から真の愚かさと定義されてきた。その様に真に愚かな個人は現実には相当少ないとしても、自分自身が多少あれ似た過ちを犯していないかにはどれだけ注意深くなっても足りない。
 専門性、即ち特定の体系的前提知識を前提としない情報は単に喧伝的な有用性の部分でしかなく、少数の賢者にとってのみ有用な情報に対しては常に冗長過ぎるので価値が劣るだろう。こうして、情報産業における価値は主観的なのである。